【侵し、侵され。】①激しく侵された日
今、僕は君を無性に侵したい。
そして君に激しく侵されたい。
僕はこれまでずっと、自分のテリトリー、パーソナルエリア、行動規範、生き方、考え方、時間など、あらゆる物事を自分で決定し、そしてコントロール出来ている状態でありたいと考えていた。そしてそれは、天の起こす事象を除いた、一般的な身の回りの生活という小さな世界では、それほどの努力をせずとも簡単に守られてきていた。
それはまだ子供だった頃からの、心地よく生活していく為の習慣のようなものだった。
僕がそうなるのには理由があった。はっきりと覚えている。僕が小学校に上がりたてのあの日のこと。
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クラスで遊んでいたグループの中に、リーダー的な存在の男の子がいた。その男の子タカオ君が、次の日曜日お前の家に遊びに行ってもいいかと訊ねてきた。僕は何も考えずに、いいよ。おいでよ。そう答えていた。
「日曜日にキヨトの家に遊びに行くひとー」
タカオ君は教室中に響きわたる大きな声で、クラスのみんなを誘った。
「はーい」「行く行くー」
「キヨト君ちってネコちゃんいるんでしょ。ウチはペット飼えないからネコちゃんと遊びたーい」
教室にいる殆どの子供たちが手をあげた。僕は少し得意気に
「じゃあ、みんなで遊びにおいでよ。お母さんに言って、おやつも用意してもらっとくからさ」
「わーい、楽しみー」
クラス中の人が僕のことで盛り上がっていた。ネコちゃんてなんて名前、ゲームはあるのか、おやつはチョコレートケーキがいい。などなど皆勝手なことを話しかけてきた。でも、うれしかった。こんなに目立つこともなかったから、僕は有頂天になっていた。
日曜日の午後、約束した近所の公園までみんなを迎えに行った。集まったのは、手を上げていた人数の半分くらいだった。それでも10人ちょっとはいたと思う。
玄関のドアを開ける。
「おじゃましまーす」
靴を脱ぎながら、みんなは元気よく挨拶をしてから、我先にと廊下を駆けていく。
台所から出てきたお母さんは、
「いらっしゃーい」
と返事はしたものの、脇をすり抜けていく子供たちに一瞬、ムッとした顔をした。
「テンちゃんどこー」
この間から、ネコの話しばかり訊いてきたメグちゃんには、ネコの名前を教えてあげていた。数字の10を英語読みしてテン。お父さんがつけた名前だ。お父さんが子供の頃から飼っていたネコには、数字に関係する名前がつけられてきたらしい。最初のネコの名前がムツ。ムツは数字を意識したわけではないようだ。次のネコからナナ、ハチ、キュウときて、ジュウとはつけずにテン。テンは2週間前に、スーパーマーケットの駐車場でダンボールに入れられ捨てられていたのをお母さんが見つけ、泣きながら連れて帰ってきた。真っ白でキレイな、女の子みたいなオスのネコ。まだ人には慣れていない。臆病者。
メグちゃんは家中の襖を勢いよく開け、ネコを探し始めた。メグちゃんと仲の良い女の子たちも、それについてまわった。
「キヨトの部屋はどこだ」
「2階だよ」
僕が2階にある兄ちゃんと共同の部屋に、男の子たちを案内しようとすると、
「あー テンちゃん発見! カワイー。だっこしてあげるからね」
メグちゃんの声で、男の子たちも居間へと移動する。
メグちゃんはテーブルの下に隠れたテンをつかまえようと、屈んでゆっくり手を伸ばす。テンは素早くテレビの裏へと逃げ込む。ひとりの女の子が、落ちていた猫じゃらしを使って、テンをおびきだす。チャンスを見計らってメグちゃんがテンをむりやり抱き寄せた。
「痛いっ」
メグちゃんがテンに顔を引っ掻かれた。テンは勢いよくメグちゃんの腕から飛び出して、障子を破きながら逃げていった。
メグちゃんは顔を押さえながら、大きな声で泣き出した。
その声を聞いてお母さんが居間に駆け込んできた。
「どうしたの?大丈夫?」
「テンがメグちゃんを引っ掻いちゃった」
僕が答えた。
「ちょっと見せてみて」
お母さんがメグちゃんの前に屈み、傷を確かめる。
メグちゃんの右の眉の上には赤い線が3本並び、少し離れた額の真ん中に短く一本。
「あーらいたかったわねぇ。無理に抱こうとしたら、ネコもびっくりしちゃうのよ。ごめんね」
と言って、救急箱を持ってきた。
「あなた達は、キヨトの部屋に行ってなさい」
お母さんに言われて、僕たちは何だかしょんぼりした気分で2階へと向かった。
「うっ くさっ。何だこの匂い」
先に階段を昇り、僕とお兄ちゃんの部屋に入ったタカオ君がいきなり無礼なことを言う。
臭いわけはない。だって、今日は午前中からお母さんに手伝ってもらって、部屋の片付けや掃除をして、最後に消臭剤までやっておいたんだから。
僕も急いで部屋に入る。
「くさっ」
「ホントだ。何この匂い」
本当に臭かった。でも、どうして。
嗅いだことのある匂いだったが、何の匂いだったか思い出せない。
誰かがベランダへ続く窓を開けた。
僕も勉強机の脇にある窓を開ける。
鼻をクンクンさせながら、匂いの元をたどる。どうやらベッドの方から漂っているようだ。
二段ベッドの下の段。掛けぶとんの真ん中の少し窪んだ辺りに鼻を近づけてみた。
「あっ ここだ」
手で触れてみると、湿っていた。
「うっ オシッコ。ネコのオシッコだ」
ようやく匂いの原因がわかった。
「きったねー」
「ネコのオシッコって、こんなに臭いの」
など、みんなに非難を浴びながら、お母さんを呼んだ。
「おかあさーん。たいへん。ちょっと来てー」
「えーっ 今度はなにーっ」
どすどすと階段を上がってきたお母さんに事情を説明すると、
「もー しかたないわねー」
と言いながら、掛けぶとんを丸めて抱えた。
「メグちゃんはウチに帰りたいっていうから、家まで送ってくるね。お菓子とジュースが台所に置いてあるからキヨト、持ってきてあげて。それから、ベッドに消臭剤もよろしく」
と言って階段を降りて行った。
「はーい」
僕は返事をして、テレビ台の下の段から消臭スプレーを取り、ベッドにシュッシュッシュッシュ、部屋の中空にシュッシュッシュとふり撒いた。
「メグちゃん帰っちゃったんだねー」
「ネコにかじられて、血が出ちゃってたねー」
「かわいそうだねー」
女の子たちの会話に居心地が悪くなった僕は、台所におやつとジュースを取りに行った。
お盆に乗せて戻ってくると、タカオ君と男の子たちはテレビゲームを始めようとしていた。
「おやつ持ってきたよ」
声をかけると、みんなが一斉にこちらを振り返った。
「えー ケーキじゃないじゃん」
「いつも食べてるスナック菓子かよ」
「オレンジジュースじゃなくて、ミルクティーがいいな」
みんな勝手なことを言う。ウチは普段、おやつなんか出ないんだからこれでも上等なほうなんだけどな。
「じゃあ、欲しい人だけここからとって」
僕は半分やけになって言った。
みんなはブツブツ言いながらも、3つのスナック菓子の袋を開け、オレンジジュースを注いで食べ出した。
「ねえキヨト君、トランプある? わたし占いできるからみんなのこと占ってあげる」
僕はお兄ちゃんの机の引き出しから、お兄ちゃんがお気に入りのアニメキャラの入ったトランプを取り出した。
「これでいい?」
「うーん、雰囲気が出ないけど、他になければ我慢する」
女の子たちは丸く輪になって、キャッキャキャッキャとトランプ占いを始めた。
各々、遊び始めてから1時間くらいが経って、手持ちぶさたな僕が、お母さんまだ帰って来ないな。遅いなーなんて考えていたら、タカオ君ともうひとりの男の子が、次にどのゲームをやるかで揉めだした。
タカオ君はサッカーのゲーム、もうひとりの男の子はレースゲームをやりたいようだ。両者ともゆずらない。タカオ君がもうひとりの男の子の手をはたいた。ゲームソフトが飛んでいく。
「あっ」
バキバキッ
絨毯の上に落ちたゲームソフトを、トイレから戻ってきた別の男の子が踏んでしまった。
このレースゲームのソフトはお兄ちゃんが最近、買ったやつだ。怒られる。殴られる。想像で血の気が引いてきた。
「お前が悪いんだぞ」
「はたいたのはタカオ君だろ」
二人は掴み合い、取っ組み合い、ケンカを始めた。二人は縺れ合って女子たちがトランプをしているところへと倒れこんだ。
「キャーッ」
ガラスのコップが割れ、オレンジジュースがオフホワイトの絨毯に染みていく。
「やめろーっ」
叫んでいた。さっき引いた血が、勢いよく頭のてっぺんまで一気に昇ってきた。
タカオ君の上に跨がり殴っていた。タカオ君の鼻の穴から血が流れてきた。
タカオ君と女の子たちが声をあげて泣いている。
血を見て我に返った僕は、立ち上がり静かに告げた。
「お願いだからみんなもう帰って」
皆、おとなしく立ち上がった。
タカオ君は立ち上がる前に、右手の甲で鼻から垂れた血を拭い、その右手をついて立ち上がったので、毛の長い絨毯には赤い染みもできた。
みんなが帰ったあとも、僕は絨毯の上の惨状を眺めていた。
キラリと光る尖ったガラスの破片、薄いオレンジと赤の染み、ばらばらに砕け散ったスナック菓子。
侵された。
そのときは、それがどんな感情なのか名づけることはできなかったけど。
言葉で表現するなら、僕はその日まちがいなく、激しく侵されたのだ。
そして、まずお母さんが帰ってきた。
《続く》
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