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【侵し、侵され。】⑤ 誕生日にBARへ出掛ける


ここまでのストーリーはこちらからどうぞ( ゚∀゚)つ




毎年、夏の暑さが増してゆく。夏は嫌いだ。夏なんか無くなればいい。

それでも今日は、外へ出てみる気になった。夕立ちのあと、いくらか涼しく感じられる。田舎の小さな街中を歩いて、ひとりでもゆっくり出来そうな店を探す。

午後6時。空はまだ明るく、ひとつの季節を告げるためだけに存在する、蝉の合唱がフィナーレを前に盛り上がっている。

街を歩く時にいつも苦手だった、黒服の怪しい顔した男たちや、薄い派手な布を纏った女たちは今は路上にはいない。ここ一年あまりの間、感染病が世界的に流行しているからだ。飲食店が多く並び、夜になると賑わうこの商店街も、今は人が疎らだ。もともと他人となるべく接したくないタイプの私には、ソーシャルディスタンスやらテレワークだとかいうものは歓迎すべきものだが、さすがにたまに出てきた街がこんなに静かだと、寂しく感じてしまう。実に勝手な考え方だとは自分でも思うけれど。

商店街からの脇道に、昔からやっている記憶のあるバーを見つけた。〈OPEN 〉の札が、重そうな木の扉に掛けられている。静かそうな店だ。私はその重厚な扉を引いて店内に足を踏み入れた。

店内は薄暗く、落ちつけそうな雰囲気だった。L字形のカウンターの入り口にから近い隅のスツールに陣取った。まだ他の客はいない。

壁に掛けられた黒板に書かれたメニューから、コンビーフと玉子の2種類のサンドウィッチを選ぶ。飲み物はコロナビールにした。

私は普段、殆ど酒は飲まない。味が嫌いな訳ではないし、特別にアルコールに弱いという訳でもない。ただ、酔うことで自分のペースがくずれてしまうことが嫌いなのだ。でも今日は突然、外に出て、どこかお店で酒が飲みたくなった。今日は42歳の誕生日。ずっと誕生日なんて何もしないで終わっていた。けど今朝目が覚めると、ふと、そんな気分になった。

ライムが飲み口に刺さったコロナビールが、分厚い木のカウンターに静かに置かれた。左手で果汁が飛び散らないように瓶の口を囲みながら押さえ、右手の人差し指でライムを瓶の中へ押し込んだ。つい勢いでライムを触った指を軽く舐めてしまう。酸味が心地よい。唾液がアルコールを胃へ運ぶ準備を始める。左手で瓶の口を自分の唇へ誘う。爽やかな苦味と静かな刺激が喉を通過してゆく。

「白身魚と小ネギの梅肉カルパッチョ風です」

薄茶色の品の良い焼き物の小皿が運ばれてきた。もの静かなマスターだ。細く整えられた髭が、揉み上げからマスクの中へ続いている。バーのカウンターという舞台で、自分の成すべき役割を演じているのだろう。私はこの店のマスターに好感をもった。

白身魚は、イサキとマダイが二切れづつ乗っていた。梅肉の酸味、小ネギのほどよい苦味、それからオリーブオイルの軽やかな香りが鼻腔を抜けていく。白身魚の甘味が強調されていた。ピンクペッパーの粒をカリッと噛んで、コロナビールで流し込む。食欲が湧いてくるのを感じる。良い出だしだ。

ゆっくり皿をつつきビールを飲みながら、サンドウィッチが出来上がるのを待つ。

「お待たせ致しました」

4分の1にカットされたサンドウィッチが各4切れづつ、黒く丸い皿に並べられている。少し多いように思えた。

コンビーフのサンドウィッチには、少量のマヨネーズと粒マスタードが塗られていた。ひとくち食べて、赤ワインをグラスで注文した。残ったコロナビールを胃に流し込んだ。

マスターが選んでくれたワインは、少し冷えた華やかな香りが広がる軽めのものだった。サンドウィッチによく合うチョイスだった。

玉子のサンドウィッチにはマヨネーズは使われてなく、バターとブラックペッパーと塩で味つけされていた。シンプルだが、とろりとした固まる前の玉子は甘く、ブラックペッパーが良いアクセントになっていた。

一息ついたところでマスターから話しかけられた。

「おひとりでよく呑みに出掛けられるんですか」

「いえ、他の人とも殆ど出掛けません。実は今日、誕生日で。なんとなくお酒を飲みに出掛けようかなって気になって」

「そうですか。それはおめでとうございます。それから、大切な日に当店をお選びいただきまして、ありがとうございます」

「ありがとうございます。でも、これまで誕生日なんて何もせずに過ごしてきたので、それほど特別な日でもないですけどね。夏は蒸し暑くて出掛けるのも億劫だし。あー、早く秋にならないかな」

「秋が一番お好きなんですか。秋は過ごしやすいですものね」

「はい。冬は寒いし風邪とかインフルエンザにかかりやすいし、春は花粉が辛いし、梅雨なんてじめじめして気持ち悪くてイヤだし、夏はやっぱり湿気と暑さで動く気しないし。ずっと秋だったらいいなって思います」

「なるほど。確かに。でも私は暑いのも寒いのも好きですよ。夏は海でサーフィン。冬は山でスキーができるでしょう。もう歳が歳なのでそれほど頻繁には行かなくなりましたが」

「まあ、そういう趣味のある方はそうでしょうね。私はそういうのは一切やらないので」

「いや、お客様のように趣味なんてなくても楽しく生きられたらそれでいいと思いますよ。私は趣味のために働いているようなものですからね。この店もお酒が好きで趣味のように始めたようなものですけど。あっ、そう言っちゃったらおいでいただいたお客様には失礼にあたりますね。これは失礼致しました」

ふたりで小さく声をあげて笑っていると、後ろの入り口のドアが開く音がした。マスターがそちらの方へ、親しみを込めた笑顔を向ける。

「サラさん、いらっしゃい。今日はお早いご来店ですね」

「マスター、こんばんは。今日は出掛けるつもりじゃなかったんだけど、なんだかじっとしていられなくて来ちゃいました」

サラさんと呼ばれたその女性は、軽くこちらにも会釈をすると、カウンターの一番奥のスツールに座った。

この女性がこれから私を侵していくのだとは気づかないほど、穏やかな出逢いだった。いやっ、穏やかなスタートだったからこそ、じわじわと侵食されることになっていったのだろう。

店の外はやっと暗くなり始めた頃だろうか。店内ではジャズの軽快な音が、静かに私のバリアに穴を開け、鎧を脱がせてようとしている。私に気づかれないようにゆっくり、ゆっくりと。





《続く》



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しめじ
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