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200色のあなたに、花の香を

白は本当に200色あるのか調べてみたことがある。

色には、色味をもつ有彩色色味をもたない無彩色があり、白色は無彩色に属する

あなたがこれを見ているスマホやパソコンでは、色はRGB(赤・緑・青)の光の三原色で構成されており、モニターに表示される色はその組み合わせである。ペイントでこんなのを見たことないだろうか。

右下の赤・緑・青の数字は、ひとつにつき1~255の全256段階の濃さがあるので、その組み合わせ256^3通り、1677万7216通りの色が、今あなたがみている画面で表現することができる。

白・黒・グレーの無彩色はパレットに出した赤・緑・青が、赤10、緑10、青10、といったようにRGBの各色の段階が同じ(すべてが255だと白、すべてが0なら黒、グレーはその中間)なのだが、白とグレーの境界があいまいなので大体なのだが、1000通りくらいあるそうだ。つまり、白は200色どころか1000色くらいある

ここからが本題である。「白って200色あんねん」は、前段として、「どんな小さい物の良いところを探すのが好き」だと前置きした上で、たまたま手に持っていたタオルを「褒めるなら?」と訊かれた時の回答である。

この時はオチとして処理されてしまったので理由を聞くことはできなかったが、つまりこれは褒め言葉、肯定語なのである。

このところ、肯定語に違和感を覚える。「優勝でーす」というポストをきっかけにひと悶着あったことも記憶に新しいが、とくにタレント、アイドル、インフルエンサー、VTuberなどなどの有名人がこれを言っているとすごく違和感がある。念のため言っておくが、嫌悪感ではなく違和感である

「生きてるだけでえらいよ」など、自己肯定感をあげる言葉がもてはやされ、自己肯定強者として”ギャル”がその権化を任されたりなど、罵詈雑言に曝されたり共感に飢えたメディアの世界、ひいてはそれに影響された現実世界でも肯定語が渇望されている。

どうだろう。誹謗中傷・罵詈雑言が飛び交うソーシャルメディアの世界に身を置きながら、他者を気遣い、優しい言葉をかけ、不安や悩みに寄り添う、福祉的な善き人間を誰が責められようか。法令遵守を心がければ国家がケツ持ちである。現代において、善き人は強者である。現代人は当たり前のように善であることの過ごしやすさやメリットを理解しているとおもう。善であることは優位なのだ。

では有名人だとこれがわたしにどう映るのか。富や名声をもつ人気商売人が「優しくありましょうね、わたしはあなたのことを慮り、労りますよ」とノブレス・オブリージュのように優しくふるまい、ファンや視聴者の不特定他者に向けて肯定するような声掛けを見かけると、元手ゼロで好感度を買っているように見える言っていることは決して間違ってなどなく至極全うに正しいのだが、つまりはたしてそれはほんとうに善い関係なのか、とわたしはにわかに信じがたいのだ。

人気商売人の財産といえる支持者の多さは実績や共感や好感度など由来している。ということは、本当であれ嘘であれ、支持者に優しい姿勢をみせることはすなわち商売である。商売とは人を幸せにすることであるから、彼らはまっとうにビジネスを成立させているのだが、実態として持ってる者が持たざる者から搾取してるのではないのか、それはアンバランスではないか。この辺りは推し活ビジネスにも絡んでくる話題なのだが、それは一旦横において、つまりわたしが言いたいのはその共感は人を救えているのかという疑問が残っているということだ。

彼らの”優しさ”についてはあくまでわたしの憶測でしかないのだが、つまりわたしが抱く違和感は[はたしてそれは優しさなのか]という疑問なのだ。ここでやっと、このテキストの本題であり目的に辿りついた。あとすこしだけ、ぜひわたしにお付き合い願いたい。

中学の修学旅行先の鴨川で独りで水切りをしていた苦い経験から【ひとにやさしく】がモットーのわたしにとって、”やさしさとは”は常に考えてきたテーマである。15年ほどの長い間このテーマと向き合うなかで、他者に共感し肯定するがそうであると思っていた時もあったし、一方で共感をしめしながらも否定することもまたそうであると思っていた時もあった。

わたしが考えるに、あくまで共感や理解は手掛かりであり、肝心なのは問題との向き合い方である。喩えるなら光の三原色のように、一人称視点や二人称的事情、第三者などの外的要因など様々な組み合わせで個人の問題は構成されていて、”やさしさ”とはその組み合わせを読み解き、快方へ導くために悩む事が今のところのわたしの仮説である。

逆にいえば、行動が伴わないなら無闇矢鱈に優しさなどはふりまいてはいけないと自戒してさえいる。

その仮説に基づけば、ハンコ仕事のような「生きてるだけでえらい」などの肯定するためだけの肯定語はわたしとしては何も言ってないに等しい。相手の事情を知り、理解して、共感するだけでは届いていない。真に自己肯定を必要としている人を救いたいならば個別の案件に少しでも踏み込むべきだ。それがままならないのなら安易に他人に共感を示すべきではない。

ここまで書いて見方が変わったのだが、冒頭に引用した「200色の白」の当初の違和感は、この組み合わせを読み解く教養なのかもしれない。ともすれば飯のタネなどと言ってしまったが、断片的な情報から安易な偏見を持ってしまったことを反省するとともにいまは受け止められるようになった。

自己肯定感に関しては、わたしのメンタリティに[・自己肯定感]というカテゴリが無いのであるともないともいえないのだが、”優しさ”で自己防衛やアイデンティティの確立をしてきたわたしにとってやつらは企業理念がすこし違う同業他社でなのだ。だから違和感があって気になったのだった。

このテキストを作成しながら、先に述べたように”優しさ”とは悩む事であるので、このテキストにおいて結論などないのだが、最後にいい感じの歌詞を引用してそれっぽく終える。

やさしさだけじゃ(ナナナナナナナ)
人は愛せないから
ああ なぐさめてあげられない
期待はずれの
言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにもガンバレ!

THE BLUE HEARTS『人にやさしく』

おしまい。


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