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手書きからAIへ
まだ若い学生だった1990年代頃、コンピューターやワープロソフトがまだ普及していない時代、執筆の道具といえば、ペンと紙が主流でした。当時、手動または電動タイプライターが最先端の技術といえるものでした。
その時代、課題の執筆は次のようなステップで進めていました。
まず、図書館で本を探し、読むことから始めます。テーマを決めると、その関連分野の書棚を回るのです。本はデューイ十進分類法(DDC)に基づいて分類されており、たとえば100番台は哲学、130番台は人類学、200番台は神学といった具合です。この分類法は、哲学や神学といった学問が尊重されているように感じて好感が持てました。
もう一つ、よく時間を費やしたのはカードボックスの棚の前でした。大学の図書館では、このカードボックスが専用の部屋にまとめられており、一枚一枚のカードを確認しては、書名、著者名、発行年などの書誌情報を手作業でメモするのです。
こうした作業を振り返ると、当時の学生や研究者たちがいかに忍耐強かったかを思い知らされます。作業には何日、時には何週間もかかりました。その後、カードボックスはデジタル化され、図書館の大きなデスクトップPCでMS-DOS風の暗い画面を操作しながら検索するようになりましたが、それでもなお、面倒な作業でした。
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必要な参考文献が見つかると、次はそれらを読み始めます。本を読むこと自体は楽しい作業でしたが、かなりの労力が必要でした。図書館の本は書き込みが禁止されていたため、重要な箇所や引用に値する部分を見つけたときには、それを手作業で書き写すか、要約し、小さなエッセイのようにまとめていました。
このプロセスは、今から振り返ってみるといわゆる「スローリーディング」そのものでした。当時出会った数々の本は、今でも心に深く刻まれているものも少なくありません。まさしくスローリーディングの力であり、若いうちにじっくり本を読むことの大切さなのでしょう。
ただしある時点で資料探しを「打ち切る」決断が必要です。この決断は非常に重要です。さもないと資料探し(つまり本を読むこと)が際限なく続いてしまいます。読めば読むほど、「これも読まなければ」と思う本が次々と出てくるからです。
これは大学院生が陥りやすい罠の一つです。たとえば、執筆を料理に例えるなら、まずは材料を集める必要があります。しかし、材料を集めるだけでは料理(執筆)は完成しません。大切なのは「書き始める」ことです。奇妙な言い方ですが、書き始めない限り書き始めることはできません。そして「下書き」という行動こそが、執筆のスタートを切る鍵になります。
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20世紀末、執筆作業はまだデジタル化されていませんでした。当時、ほとんどの人が下書きは手書きで行うべきだと考えていました。ペンと紙を使うことで、創造的な思考の流れを最大限に引き出せると信じられていたのです。典型的な「下書きの道具」として活躍したのが黄色いリーガルパッドでした。このパッドは安価で持ち運びにも便利で、まるでチラシ用の紙のように気軽に扱うことができました。
そのため、書き始める際の心理的なハードルを下げてくれる存在でもありました。「ただ思いついたことをメモしているだけだ」と気軽に感じさせてくれたのです。
あの手書きの時代が懐かしく感じます。
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多くの場合、下書きを始める前には、まずアウトラインを作成するよう勧められていました。アウトラインが完成すれば、自信を持って執筆に取り組めるとされていたのです。しかし、ピーター・エルボウの著書『Writing without Teachers』や『Writing with Power』に書かれているように、厳密なアウトラインはかえって創造性を妨げる場合があります。
アウトラインを作ることで、思考の流れに沿って自由に書くことよりも、あらかじめ決めた構成に「内容を埋める」ことに集中してしまうからです。その結果、執筆プロセスでの創造的な「セレンディピティ」、つまり偶然の発見を失う可能性があります。
ピーター・エルボウの意見に賛成です。アウトラインによって創造性を制限されるべきではありません。執筆は常に流動的であるべきで、書くこと自体が瞑想のような体験となり、偶然の発見の連続であるべきなのです。
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中には手動のタイプライターで下書きをする人もいました。このクラシックな行為は、タイピング音の心地よさとともにどこか魅力的でした。私も試してみましたが、手動タイプライターは音が大きく、持ち運びにも不向きでした。
執筆には「聖域」が必要です。必ずしも自分の部屋である必要はありませんが、執筆に集中できる空間が理想的でしょう。
私は図書館の書棚近くの机やカフェテリアのテーブルをよく使っていました。当時はノートパソコンやタブレットがまだ存在しなかったため、理想の執筆道具といえば、安価なボールペンとリーガルサイズの黄色いパッドでした。
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下書きが完成すると、次はワープロソフトを使って提出用の形式に整え、内容を仕上げていく段階に移ります。
Windows 95が登場し、AppleのPowerBookが憧れのアイテムだった時代、先進的なユーザーはこれらのデバイスで直接下書きを始めていました。しかし、多くの人にとってまだ、ペンと紙による手書きが執筆の基本でした。
執筆とは「身体的な行為」であるべきだとされ、手や指だけでなく、ペンと紙を使うことで思考の流れを最大限に引き出せると信じられていたのです。
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現在、もしインターネットや高度な執筆ツールがない環境で論文や卒業論文を書くとしたら、果たして当時と同じプロセスを踏めるかどうか、自信がありません。
もうペンと紙で下書きをすることはありません。図書館を訪れることも、非デジタル化された資料を確認する必要があるときくらいです。今ではノートパソコンを使って直接入力しています。むろん、PowerBookではなく、MacBook Airを使っています。
もっと言えば、今や下書きでさえ、iPhoneで行える時代です。仮想キーボードでのタイピングは物理的なキーボードよりも快適で、スマートフォンの小さな画面は執筆行為そのものに集中させてくれます。まるで瞑想のようです。
妻が買い物をしている間、私はその後ろを歩きながらiPhoneで下書きをしています。その瞬間に浮かぶアイデアや思考を捉える感覚は、昔、黄色いリーガルパッドを持ち歩いていた頃と似ています。
技術が進化しても、変わらないのは「下書き」という行為そのものです。執筆が思考であり、思考が執筆であると信じ、執筆瞑想を重視しているのであれば、黄色いリーガルパッドであれ、iPhoneであれ、創造的な流れの中で下書きをするべきなのでしょう。
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その後は「仕上げ」の段階です。
この部分において、先進的なワープロ技術は私たちの生活を大いに楽にしてくれました。デジタルコンテンツは無限に複製可能で、スペルや文法チェック、校正ツールも非常に洗練されています。かつては目視でスペルや文法、句読点を一つずつ確認し、それでも不安で同級生に見てもらっていた時代を思い出します。
現在、生成AIのおかげで、校正や仕上げのためのツールはかつてないほど高度なものになっています。
近年では、Grammarlyのようなツールを使って執筆をチェックするのが一般的になりました。さらに2023年に生成AIが登場して以来、その影響は避けられなくなりました。
AIは発想やアイデア出しのパートナーとしても機能します。一度下書きが完成すれば、AIが即座に内容を読みやすく整えたり、SEO対策を施したりしてくれます。AIに依頼すれば、戦略的かつマーケティング向けの調整も可能です。
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ビジネスの世界では、生成AIの活用は必須です。AIを使わなければ生き残れない業界も多く、意識的かどうかにかかわらず、AIが日常的に使われています。当初はスペルや文法のチェックだけのために使っていましたが、AIの進化に慣れていくうちに、たとえ粗い下書きでもAIが魅力的な完成形に近づけてくれると気づきました。
しかし、これは一つのジレンマでもあります。この使い方が習慣化されると、自分の「執筆本能」が鈍る可能性があるかもしれません。
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IT業界で働く中、AIの利用が推奨される環境に慣れていましたが、一方で最近、AI検出ツールという存在も知らされました。英語圏では、教師や出版社が、提出された文章のオリジナリティや創造性を重視しているため、利用されているようです。
そうした中、最近では、YouTubeにAI検出ツールを回避する方法を紹介する動画までもが大量に投稿されています。これはまるでスポーツ業界がドーピング問題に取り組む姿を彷彿とさせます。一方で、AI検出ツールの「誤判定」に苦しむ学生やプロの作家の投稿も多く目にします。
AIがコンテンツ制作に関与することに対して、当初は楽観的でしたが、こうした問題を知った今、複雑な気持ちが湧き起こっています。仕事ではAIの利用が避けられませんが、今書いているようなこういった手書きの伝統に連なる「個人的な」執筆においては、慎重さが求められるとも感じています。
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