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目を開いていても、なお盲目のまま
よく「目が開かれる」と言います。この言葉には、目が開くことで悟りへと近づくという意味が込められています。長い間見えなかったものが、ついに見えるようになり、世界の真実を理解できるようになる。果たして本当にそうなのでしょうか。
目が開いているとは、どういう状態を指すのでしょうか。最終的に悟りに至ることは可能なのでしょうか。目、つまり感覚や知覚が真実を示し、そこから解放されることはできるのでしょうか。そもそも、本当に目が開いていると確信することはできるのでしょうか。
この考え方は、時として欺瞞的にも思えます。しばしば、自分では気づかぬうちに、あるいは意図的に「目が開いた」「真実を見つけた」と信じ込んでしまうことがあります。それは一種の疑似的な精神性ではないでしょうか。
洞窟の寓話
ある意味、人間は盲目と無知ゆえに苦しんでいます。プラトンが述べたように、私たちが見ている世界は、洞窟の壁に映し出された影にすぎません。
生まれながらに持つ限界によって、この洞窟の中で一生を過ごすことを宿命づけられています。そのため、洞窟の外にある「真の世界」を知覚することはできません。この洞窟そのものが、認識や存在の限界を象徴しています。
もしかすると、生まれる前や死んだ後には、この洞窟から解放されるのかもしれません。しかし、そのときにはもはや自分自身ではなくなり、洞窟の外に広がる「真の世界」に関心を持つこともなくなっているでしょう。
宇宙という洞窟
同じことが宇宙にも当てはまります。どれほど視野を広げ、知性を発展させても、洞窟の外を見ることはできません。結局のところ、私たちが生きているこの宇宙そのものが、ひとつの洞窟なのです。
この洞窟は時間と空間のすべてを含んでいます。永遠とは、単に時空に縛られた宇宙が延長されたものではありません。宇宙論では、ビッグバンによる始まりや、ビッグクランチ、ブラックホール、ダークマターやダークエネルギーによる終焉について語られます。しかし、どのような理論を立てても、それは依然として洞窟の影を見ているにすぎません。
そもそも、「見る」という行為そのものが、目であれ知性であれ、洞窟の壁に映る影を目撃しているにすぎないのです。
つまり、限られた感覚に頼る限り、見えるものは常に洞窟の影にすぎません。これは、知覚し、生き、存在するということそのものが持つ必然的な構造なのです。
啓示の逆説
このように、「目が開いている」ことと「盲目である」ことの区別は、もはや意味を持たなくなります。たとえ目が開き、悟りに至ったと信じたとしても、限られた知覚の枠内で現実を捉えようとする限り、見えているのは結局のところ洞窟の影にすぎません。
つまり、目が開いていると思っていても、実際には盲目のままです。そもそも、見えるものも知性によって理解できるものも、すべて洞窟の影にすぎないという意味で、人は誰しも盲目なのです。
では、洞窟の外にある「真実」を見ることは不可能なのでしょうか。目と知性だけを頼りにする限り、それは不可能です。見えているのは常に影でしかありません。聖書にも、こう記されています。
目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。そして、思い出さないのか。
限界を受け入れる
それでは、どうすればよいのでしょうか。この限界を乗り越えることはできなくとも、少なくとも自らの盲目という事実を受け入れる必要があります。
完全に開かれた目など存在しません。目が開いているように見えたとしても、それが真実を明らかにすることはありません。どのような状態であっても、盲目であることに変わりはないのです。
これこそが、まず受け入れなければならない真実です。見えているものが洞窟の影でしかないという現実を、完全に受け入れること。それはすなわち、影の向こうを見ようとする無意味な試みを手放すことにほかなりません。
洞窟の中で生きる
この世界と宇宙に生きる限り、洞窟の中に存在しているという事実から逃れることはできません。この現実を否定することは、生そのものを否定することに等しいのです。たとえ、死後や生まれる前の世界を想像したとしても、そのときにはもはや自分自身ではなくなり、洞窟の外に何があるのかを知ろうとすることすらなくなっているかもしれません。
しかし、ひとつ確かなことがあります。永遠の世界、天国、あるいは時間や空間を超えた領域には、幻影も影も存在せず、人を惑わすものは何ひとつないということです。
影を見極める
この地上では、盲目であるという現実を受け入れなければなりません。目や知性を使って見ているものは、すべて洞窟の影にすぎません。完全に開かれた目も、悟りの極致も存在しません。偽りの霊的覚醒に陥らぬよう、注意しなければなりません。
どのような言葉で語ろうとも、目に映るものはすべて影にすぎません。しかし、それらの影は、何か実在するものによって生み出されているのです。自分自身である限り、この洞窟から抜け出すことはできません。そして、自分に執着すればするほど、その迷いは深まっていきます。それでもなお、影が洞窟の外にある何かから生じていることは、確かに知っています。
洞窟を完全に離れることはできませんが、影が何かの存在を示していることは確かです。それは一体何なのか。その本質を知ることも、見ることも、理解することもできません。なぜなら、この洞窟の中で生きる限り、盲目であるという本質から逃れられないからです。しかし、それは何なのか。どのような影なのでしょうか。
自己を捨てるという呼びかけに耳を傾けましょう。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、わたしに従いなさい。
この存在の洞窟の中で、人は皆、盲目のまま生きています。地上で見えているのは、すべて洞窟の影にすぎません。それでは、この影とは何なのでしょうか。それは、洞窟の外にある何かの影であり、ただ間接的にしか「天国」と呼ぶことができないものなのです。
最後には、ただ祈ることしかできないのです。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
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