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ハイキュー!!白鳥沢学園鷲匠先生の「スパルタ」を考えてみた。
スパルタの反対語はゆとり?
昨日友人からLINEがきた。
不躾だと僕を叱ってきたあの友人だ。
「【スパルタ】の反対語って何だと思う?」
1分少々考えた。ちょっとふざけた意味も込めて「ゆとり」と答えた。
すると友人から「だよね」と返ってきた。
続けて彼は「そうすると、スパルタも悪くないことだよな」
「え、なんで?」と疑問だったがすかさず確かにそうだよなと思った。
というのも昨日の記事でハイキュー!!を読み返した時、白鳥沢学園の鷲匠先生が「スパルタ」だったのだ。
友人はこう続けた。
「大衆が単語に持つイメージって大事だよな」
「スパルタの反対語がゆとりだとどっちもダメじゃねーかってなる」
「【スパルタ】にもいいところはある。考え方の違いを明確にすれば【ゆとり】だってネガティブじゃないよな」
と。確かにその通りだ。先日の記事ではとにかくスパルタが悪いと決めつけて書きなぐってしまったが、一概にスパルタそのものが悪だとは言い切れない。
それに僕はゆとり世代だが、ゆとり教育が悪かったとも思っていない。
ハイキュー!!の話に戻る。
これはフィクションだが、彼らはスパルタの中でも先生を恐れてやらされている感じはない。試合中に怒鳴ったりはするが、選手も納得しているし、先生を信頼しているように見受けられる。
何より試合中は選手自ら考えプレーしている。
じゃあスパルタの何が問題かというと、先生と生徒の信頼関係がなく、プレーヤーが監督に恐怖を抱きながら、怒られないように細心の注意を払いながらプレーしてしまう事ではないかと思う。
これは大山加奈さんの記事の受け売りだ。
コロナの影響で大会が中止になったが、加奈さんのもとには高校生からの切実なメッセージがあった。
「私は大会がなくなって、正直ホッとしています。」
「大会になれば勝たなければ監督に怒られるから。」
この一文を見た時、とても残念な気持ちと共感が入り混じった変な感情を抱いた。
こうなってしまってはそこに自主性などはなく、ただやらされているだけだ。
ネガティブな「やらされている」からは生み出せるものが圧倒的に少ない。
こうしたらうまくいくのでは?と思いついてもミスをして怒られることを想像すると途端に萎縮して意欲が薄れてしまう。
そうした思考を繰り返していくうちにいつしかチャレンジすることも、考えつくこともなくなってしまうのだと思う。僕もそうだった。
そうなってしまっては大人になって困ることばかりだ。
スパルタが悪なのではない。スパルタによって恐怖を植え付けられてしまう事が悪なのではないだろうか?
「怒る」と「叱る」の違いをよく耳にするが、教育者がその境界線を飛び越えてしまっているのが根本の問題だと思う。
しかしながらハイキュー!!の鷲匠先生の「スパルタ」と、この高校生へ向けられた「スパルタ」は同じ言葉でも天と地ほどの差がある。
そう考えるとやはり「スパルタ」そのものが絶対に悪いとは一概には言えない。
ゆとり
僕は1987年生まれ、先月で33歳になった。ゆとり教育を中学1年生から受けているゆとり世代、言わば「ゆとりファースト」だ。これは自分が勝手に呼称している。
「ゆとり」という言葉から連想されるのは「円周率3」「学力不足」「非常識」「これだからゆとりは」など。ネット上では「失敗作」と揶揄されることもある。
だが今振り返ると、ゆとり教育最大の目玉「総合的な学習の時間」は今の時代に物凄くマッチしていたように思う。
同年代でこの話題を振り返ったことがないため他の地域ではどんなゆとり教育が行われていたのかわからないが、僕が体験したゆとり教育の話をしようと思う。
まず、活動の主体となるテーマを決める。これはクラスの枠を超え、やりたい事が共通した仲間同士でチームを組む。まあほぼ仲良しグループだ。
僕は当時流行していたネプチューンのTV番組「力の限りゴーゴゴー!」の企画「ハモネプ」をやろうと中の良い7人くらいで集まった。
自分たちでテーマを決めた後、曲決め、パート分け、パート練習、全体で合わせるなど全て自分たちで自主的に活動を進めていく。
教員はその活動のサポートをしてくれる。
僕らの場合、音楽科の先生が担当になり、パート別の細かい音程の修正、全体のハーモニーの指導などをしてくれた。
学年に存在するいくつものグループは担当の教員ごとに割り振られ、その中で優秀なグループが代表となり、体育館で学年全体に向けて発表することになっていた。
僕のグループはゴスペラーズの「ひとり」をやったのだが、体育館で披露させてもらう事ができた。
テーマ選定がうまくいかず一日中ボケーッとしてしまうグループもいたが、やりたい目的が一致しているグループは各々が主体的に活動をしていたように思う。
当時はなんて楽しくて楽な授業なんだと思ったが、今振り返ると自主的に、そして主体的に活動する「ゆとり」も悪くはなかったなと思う。
さてそれから17年後の現在。無職だ(笑)
努力するためにはどうしたらいいのか。
好きを継続する事が努力だと気付いてから好きなことを吐き出すブログを毎日更新している訳だが、この活動はまさに自主的に思考して行動する「総合的な学習の時間」と同じなのではないかと思う。
終身雇用が崩壊し始めている中、「好きなことで生きていく」YouTuberが台頭し始め、フリーランス・ノマドワーカー・副業の推奨など、社会は確実に物凄いスピードで変化し始めている。
僕はその狭間で弾き出されたコケラクズのような存在だと思っているのだが、
ブログを始めてあと3日で一ヶ月が経とうとしている中、自信の身の振り方を毎日考える。
「一週間の7/7好きなことで生きていくのか」
「一週間の5/7嫌なことで生きていくのか」
考える時間も刻一刻と過ぎて少なくなってきたが、今はあのときのゆとり教育が自分のためにいい方向に働いてほしいと思う。
「スパルタ」の反対語「ゆとり」
言葉尻だけ捉えるとどちらもよくないネガティブなイメージだが、掘り下げるとどちらもいい面は出てくる。
言葉の持つイメージとその一面性だけで物事を評価してしまいがちだが、普通に生きててなかなかこんなところまで踏み込めないよなあと思う、人生の岐路に立っている33歳無職の夏。
以上。
※「スパルタ」の反対語は「ゆとり」と勝手に結論づけたがあくまで友人と僕とのやりとりなのであしからず。
初めて当ブログにお越しくださった方、
ここまでお読みくださりありがとうございました。
自己紹介がてら、この記事もお読みいただけたら幸いです。