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人間はみんな概念を映しだす鏡なんじゃないですか

こんにちは、露口です

今日もお疲れ様です。

私はtinderというアプリを使って、特に出会うわけでもなく誰かと会話するのが好きです。ツイッターとかで全然知らない人たちの日常を覗くのも好きです。

そういうインターネットの中ではみんなが各自好きなものについて語ってくれます。特にtinderでは出会いという目的のアプリなので自分の好きな異性のタイプについてプロフィールに書かれていることもあって面白いですね。

背の小さい子、背が高い人、タレ目、鼻高い人、お姉さん、年上の方、Mの子、甘えさせてくれる人、

私たちが「これがいい」「こういうのが好き」っていう時、その好きってどこからくるものなんだろうとよく考えます。

なぜそんなことを考えるのかというと、例えばわかりやすいものだと「身長」に言及されている時。女性が背の高い男性を一般的に好むのは「背が高い男性が良い」という一般的風潮の影響があるからだと思います。逆も然りです。みんなが一般的な共通事項だと思っている概念が各自の好みにも大きく影響しており、それがまた概念の強化に繋がっています。

例えば一般的にイケメンと言われる顔の造形ってあると思うんですが、社会からのイケメンとはこういうものだという刷り込みがもし無いとしたら自分が他人の顔の造形について今と同じ印象や感想を抱くと思いますか?きっと違うんじゃ無いかと思います。日本では、今はまだ当たり前に外見についての言及がされていますが、それが失礼とされる文化圏もあります。そのようなコミュニティに育ったらそのような考え方に染まるでしょう。

外見上の判断については生物学的、遺伝子的に優れている人間を知らず知らずのうちに選んでいるということもあるのかもしれません。そうだとしたらますます私たちは私たちの純粋な意志によって何かを選ぶということはしていないような気がします。ボールが壁に当たったら軌道を変えるように、私たちの遺伝子が何かに反応して選び取った。そういった、ただの現象が私たちの「選択」という形をとって起きているだけのような気がします。私たちがその選択についてしみじみ思ったり、後悔したり、満足したりするのは「反応」として起きているただの現象のような気がします。

こうして私の判断に影響を及ぼしている可能性のあるものを一つ一つ思い浮かべていくと不思議な気持ちになります。ある映画をみて抱いた感想は私がこの時代のこの日本で生きているからそう思ったのです。私がドイツやフランスに生まれ育っていたら、10年早く生まれていたら、同じにはならなかった。仕事として看護師を選んだのも、その仕事をしていて感じる悲しさややりがいも、手に取った本も、それを読んで思うことも、身に着ける服も、選んだ髪型も、全部が私の意志という形をとった世界の現象でしかないのです。確かにここに自我も意思もあるはずなのに、どうしてなんでしょうか。

言語の学習をしている時に、以前よりも強くこのように考えるようになりました。私は英語を話している時と日本語を話している時の性格がまるで違います。それは、日本語圏の文化と英語圏の文化に合わせて判断や考え方を変えているということだけではありません。英語が持つ「はっきり、明瞭に、意志を伝えるための言語」と日本語が持つ「曖昧で、優しく、敬意を示すための言語」という性格に影響されているにすぎません。要は、あるシステムの中ではそのシステムに従って私も変化するということです。

何か重大な犯罪をした人がいるとします。例えば殺人にしてみます。その人に対する人々の意見は様々でしょう。そんな奴は死刑だとか、怖いから外に出ないで欲しい、もともとおかしい人だったのでは、何も殺さなくても良かったのでは無いか、など様々あると思います。その殺人犯は人を殺したから殺人犯となりましたが、ではその前はどうでしょう。わかりませんね。その人がどんな人で何がその人に起きたかなんて本当のところはわからないんです。ところで、その殺人犯と私たちは違うでしょうか?違いますよね、当たり前です、私たちは人を殺していないんだから。では、私たちが人を殺さずに済んでいるのはなぜなんでしょうか?良識があるからですか?人は殺してはいけないと思っているからですか?どうして人を殺してはいけないと思っているのですか?人を殺してはいけないと思っていたら人を殺さずにすむのでしょうか?人を殺さずにはいられない状況になったらどうしますか?その殺人犯と同じ境遇にいたらどうですか?

私はたまたま人を殺さない人生を生きています。今の所私を殺そうとしてくる人はいませんし、戦争も始まらなさそうです。人命に関わる医療ミスもしたことがないです。殺したいほど憎い人もいません。我を失うような辛い出来事もないです。間接的に殺している人はいるかもしれません。人に限らずいろんな命の上に乗っています。幸いにも。いやこれが幸いなのかもわかりません。

なぜこんなことを書く気になったのかもわかりません。私がこれを書こうと思ったということは、私がこれを書くまでに至る色々な現象の積み重ねがあったのでしょう。人生を諦めているというわけではないです。人の可能性とか奇跡とかを否定しているわけでもないです。ただ不思議に思うだけです。あなたがこの文章を読んでくれていることもです。意味があってやっているとも思いません。私の文章を読んであなたが思うこともただの現象の一つでしょう。

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露口
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