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完璧で圧倒的なギフト!
こんばんは。
ちゃたすけ改め“それ“です笑
いつも苦しむ人の心を思っています。
どうすればその人たちに安らぎをプレゼントできるのか。
苦しみをどうしたら終わらせられるのか。
それはやはり、全ては“それ“だと気付くことかなと。
その為に少し書いてみます。
気付きは以下のような段階でした。
“私“が全てを行っている。
“私“は肉体である。
“私“とは分離したエゴをもつ人間である。
“私“とは思考や感情のこと。
“私“とは肉体ではなく、思考や感情でもない。
“私“とは“私は在る“。
全ては“それ“である。
ざっと書いてくとこんな感じで気付きがやってきました。
最後が肝心なんですけど、全ては“それ“ということは、エゴも含めて“それ“なんですよ。
これ盲点じゃありませんか?
つまり初めから分離したものなど存在してないってことです。
具体的に書きます。
何か苦しいことがあったとしましょう。
それをそのように認知し、感情が湧き、感じる。
分離していると信じているうちは、その感情を自分だと思い込んで、苦しみそのものを味わっているように見えます。
なので自分が現実だと認知した世界に抵抗します。
その苦しみから逃れようと、内外での葛藤が引き起こされます。
そうじゃありませんか?
ある程度のところまでくると、思考や感情は自分ではないので眺めることができます。
つまり現実と認知したものに自動反応するのを止められるようになります。
ここが始まりです。
自分が“自分“をやめられるようになった。
おそらく認知した世界が変わってくるはずです。
自分の行動が変わったことで、世界が変わり始めます。
脳の出力が変わったので、入力も変わります。
ですが、まだ分離という幻を持っています。
ここで先に書いたことを思い出してほしいのです。
「全ては“それ“。」ですよね?
ということは、物理現象として起きたことはもちろんのこと、その時そう認知した思考、そう感じた感情も“それ“なのです。
絶対に分離することなど不可能なんです。
天使と悪魔がいるとしましょう。
悪魔でさえ“それ“の起こりなんです。
そう見えてきたらどうでしょうか?
苦しい出来事は、出来事を認知できる力と、苦しいと感じられる能力だと気がつきませんか?
つまりそれらも含めて完璧で圧倒的なギフトだということです。
ここまでくると、全てが至福になります。
神様が神様と遊んでいるように見えています。
(そう見えることすら“それ“です。)
ここで苦しみは終わります。
正確にいうと、“苦しみ“の感覚はあるけれど、それは“私“ではなく、“それ“が起こってるだけです。
“苦しみ“をギフトとして受け取っているので、感謝に変わり、愛でています。
“ギフトだと考えること“も与えられてるので、私はそれに感謝していて、その感謝すら“それ“なんだなという境地です。
つまり完膚なきまでに“私“など存在せず、全ては“それ“なので、“私はただ在る“だけです。
ややこし〜!笑
文字にするとややこしいですが、要は圧倒的にサレンダーです。
どこまで行っても“分離した私“なんていません。
ここまできて、はたと気づいたことがあります。
冒頭に挙げた“苦しみの終わらせ方“です。
それって、分離していると思い込んでる自我が起こす、あらゆる思考や感情への抵抗を止めることだったんだなあと。
苦しみに対処しなければならないと思うと苦しいようです。
苦しんではならないと、どこかで思い込んでいませんか?
苦しみを感じるというのは自然なことです。
それはギフトです。
それを不自然に禁止したとき、より深い苦しみが生まれているような気がします。
全ては“それ“です。
全てはすでに完璧です。
苦しみは与えられたギフトであり、最終的には“それ“であると分かります。
不完全なあなたなど存在しません。
今ある全てを許してください。
あっ、ちなみに“苦しみ“を持ってて、それに抵抗するのも含めて本当に全部完璧ですよ。
いずれにしても自分は“それ“の起こりとしての自分をやめられません。
それをやめるときすら“それ“の起こりです。
終わりに...。
この文章がここに書かれることも“それ“の起こりです。
この文章を目にするのも“それ“です。
どうぞ苦しむ自分すら許し、全てに安らいでください。
力を抜いて、深呼吸をして、大丈夫です。
いつも共にあります。
今日もありがとうございます。