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自分探し終了

こんにちは。ちゃたすけです。
夏ですねぇ!

私の長年の悩みが解消したのでつらつらと書きます。

私はなぜいつもまったき心から与えることができないのかと悩んでいました。

もっとよい人間であろう。
もっと優しい人間であろう。
大きな愛の人でありたいと願いました。

そう努力してきたのですが、なかなかそのシチュエーションになると、自分が先立って人に与えることができない。

理想とする自分と、いつもそこからマイナスされた自己像がありました。

これでは豊かにはなれませんよね。
豊かでないなら与えることもできなくて当然のこと。

原因は私が本当の私のことを忘れていたからだと思うのです。

スピリチュアルや心理学を駆使して、外面的にも内面的にも豊かであるように取り組みました。

取り組めば取り組むほどに、上部だけの豊かさを追い求めていたように感じます。
ある意味での快楽に近いのかもしれません。
快楽はかならず苦痛を伴います。

徹底的に追い求め、枯渇し、もう進めないところまで来た時、導かれるように私は私に出会いました。

私はただ在る何か。
私は私が思うような実存のものではなかった。
もっと広大で、普遍で、永遠でした。
私は在るを超えた“それ“。

私が“それ“であると気がついた時、私が今世で為すべき全てのことは終わったと感じたのです。

駆り立てられる焦燥感が終わりました。

私は完成しました。
はじめからすでに完成したままあったのです。

これに気がついた時、内側から無限の豊かさが溢れるのを感じています。
私は無限の豊かさそのものだったようです。

結局のところ、この世界は幸せを探すゲームです。

やってることは違えど、みんな幸せになりたいだけなんですよね。

では、幸せになりたいのは誰でしょうか?

その誰かを知らずして、幸せを探し続けたことが苦しみでした。

幸せになるためには、私が誰であるのか気づき続けるだけで十分でした。

私たちはそこに在るだけでよい存在なのに、アイデンティティというありもしないものを構築するように、他人と比べ、競うように教えられました。

私たちは空っぽなんだという幻想を教えられたのです。

得たいものを得て幸せでしたか?
それは永続しなかったのではないでしょうか?

私はしませんでした。
だから乾いていました。

空っぽだと教え込まれた偽りの私。
それをいくら慰めても豊かには成り得ません。

偽りの私を満たすことに何の意味もありません。
それを探し求めることが欠乏感へと続きます。

あれが欲しい、これがやりたい。
この願望を持つとき、誰かの願いに100%応じることは難しくなると思います。

その願望を持っているのは誰でしょうか?
それをせねば満たされないと信じ込んでいるのは誰でしょうか?

それは本当の自分でしょうか?

神という概念は人間が想像したものです。

神という概念すら想像できる遥か大きな何か。
それこそが私たちの本性です。

これに気がついた時、私たちが私たち自身のために為すべきことなど一つもないのではないでしょうか?

私が誰なのかに気づくことだけが、全てを手に入れる方法でした。

今日もありがとうございます。

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