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体内人口削減計画(序)
我々を人間だと認めてくれるのは誰であろうか。急な問いかけに面食らっているところ申しわけないのだが、話を続けようと思う。
ここでいう「人間」とは常識のある人というような意味合いで使っている。例えば女性はメイクをして、人に会える状態にしてからでないと、外出する際、気が乗らないことがままあると思う。それは暗黙のうちで、女性が社会にまともな「人間」として認められるために求められる必要な条件として、化粧が組み込まれていることを意味している。非常に恐ろしい話であるが。
これは、世間の人々が期待する自分自身の姿を想像したうえでの思考に違いない。あるいはそこに一定の基準を置いている。これに対して「いやいや、私がなりたい自分になるためなんだよ!」という反論がどこからか湧き出て来ると思うが、自分の趣味嗜好なんてものは社会が規定している要素でもって、ほとんどを構成されていることに想像を巡らせてみる必要がある。自分の表現は表現する対象としての社会、表現する場所としての社会があったうえで行われるのである。明治時代に原宿系ファッションを思いつき、実践した人間がいただろうか。社会の正常から敢えて逸れようとする時、それは誰よりも正常を意識しているのである。
また、衣服を上下揃えてきちんとTPOに合わせたものを着ていく、人の目を見て話す、目上の人に敬語を使う等も、大きく括って慣習と文化が規定してきた「人間」である。
さて、ここで今回は何が言いたいのかというと、この文章の主題は「我々の中から人間を減らしてみませんか?」という体内人口削減計画の提案なのである。
話は具体的な例に移るのだが、昨今のコロナ禍において、オンライン授業やテレワーク等と、自宅にいながら作業をする慣習が私達に着々と根付こうとしている。
そのような、対面でないコミュニケーションは、対面時と比べて情報量が格段と減ってしまう。これに対して主に年配の方々が「オンラインでは正確で効率的な情報の伝達ができない」と憂慮する声がよく聞かれる。たしかに、全身を使った身体的コミュニケーションは取れないだろう。けれども、非効率的であるかと問われれば、まったくもってそうとは言えない。
私の大学での個人的な事例だが、オンラインの講義では自宅ならではの寛いだ頭で、好きな体制で、自分にとって効率の良い環境を整えて、講義に臨めると感じている。知識を詰め込む型の学習は最早オンラインに取って代わられるのは時間の問題だとまで思う。
たしかに、意欲や緊張感の維持等、また何らかの偶発性を期待した学習の機会は減るかもしれない。小学生や中学生等、主体的に学業に取り組むのが難しい人達への考慮も必要だとは思う。しかし、それらはまた個別の事例であり、オンラインの方が合理的な場合も数多くあると考える。
ここでやっと本題なのだが、ではなぜ私は自宅の方が効率的に学べるのだろう。それは、他者への配慮、環境からの影響、そして身体を使う慣習やマナーから距離を置けることが大きい。つまり外見面や振る舞い等に求められていた「人間」を一時的に辞めさせることができるのだ。その分の思考を学習にだけフル動員できる。これはメイクにかける時間を余暇として他の事に充てているような状態とも言える。
極端な例を一つあげよう。Zoomを用い、こちらのカメラ映像も映さなければならない時、自分の上半身のみが相手から見られることを良いことに、下半身はパンツで参加するというネタが一時期流行っていたのを覚えているだろうか。あれは要するに、下半身に「人間」を辞めてもらったのだ。言うならば、下半身の化物である。それは違う意味である。
マナーや文化もある面では大切である。けれども合理性の名のもとに何を犠牲にするかは議論の余地があるのだろう。敬語は日本の文化だ。けれども、情報の効率化という観点で敬語を辞める選択肢だってあるのだ。
それでも、マナーも共通の慣習も全く存在しない世界は文明化されていないとも言える。そんな社会では感情面の万人の万人に対する闘争が起きるのかもしれない。また、近代化に伴った効率化・合理化は呪術や宗教等、社会からはみ出てしまう人間とその心の居場所を奪ってきた。科学が担ってきたとも言えるが、それは時に、深刻なダメージを与えたこともあったのだと思う。だから、ここで大事なのは合理化ではなく、合目的化なのである。目的に合わせた行動をとれるようになるべきなのだ。
慣習を守るために~~、効率化するために~~、指針をはっきりさせ、どちらが良いとか悪いとかではなく、バランスを取らなくてはならない。文明は近代化しても人間の感情は変わらない。変わらずそこにあって気づけば溢れていくものなのだ。
だから、人間をすべて辞めてくれとは言わない。だから、まず下半身からでいい。下半身からでいいから、我々の身体に存在する「人間」を減らしていくことも、時には大切なのではないだろうか。
そして願わくば、パソコンの画面の向こう側の世界で、あの子がパンツでいてくれることを祈って止まない。「人間」を辞めたあの子もまた、人間なのである。
体内人間削減計画(序)~完~