最近の記事

デジャブ。

あ、この感覚どこかで味わったな。 あ、この光景どこかで見たな。 あ、前にもこのシーンを私は経験した と感じることが「デジャブ」と呼ばれている。 デジャブについては詳しく調べたこともないし、学術的知見がどこまで溜まっているものなのかは知らない。知らないけれど、これは人間の限界を示すものであると、うすうす感じている。 人間の感覚には限界がある。 例えば、どんなに嬉しいことがあっても、人間の脳みそは物体である以上、その物体が放出できる幸福物質の総量にも限度があるだろう。痛みや

    • 信じることと諦めることの文章。

      文章のつながりとは、映像的なものである。 朝、鳥が羽ばたき、人々が行き交い、太陽が沈み、闇に沈んだ街並み、人の気配は既にない。暗転。一台のトラックが猛スピードで車道を走るショット。一軒のボロ屋の前で急停車をする。男が降りる。ベッドで老人が寝ている。鐘が鳴る。赤。ショット。ショット。ショットの連続。 このトラックが日常とは真逆の世界に向かって、何かしら事件を起こす当事者性を帯びて、非日常の物語が始まるのだと予感できる。 文章も同じだという。 接続詞という、意味を厳密に伝

      • 語彙力が足りない化け物の手記

        語彙力が足りないと言う時、人は何を憂いているのか。 たしかに、この現状を表す言葉が見当たらないというような瞬間に「語彙力 」が足りないと言ってみる時があるだろう。 しかし、世界は言葉で切り分けていくものならば、切り分けていく道具そのものが不足しているのならば、世界を突き進むためのエンジンが不足しているってことになる。 表現したい対象を表現できないと嘆いているが、言葉があって初めて表現したい内容を理解できるのだから(そうではない対象も想定できるが)、この場合、言葉を知らない

        • 横断歩道を横断せずに渡っている。

          なぜ横断歩道は「横断」歩道なのか考えたことがあるだろうか。 私はない。 そして、今考えてみた。 たしかに、私たちの進む方向はいつでも常にまっすぐなのである。 つまり、自らの視点で見れば、前後での移動に終始しているわけである。 それなのに、なぜ横断と呼ばれているのか。 結論、ここでは車道側がメインであり、主従関係でいう「主」にあたる立ち位置に車道が置かれているからである。車側の進行方向、車の流れに対して横の動きにあたる横断、つまり、横断歩道はとても相対的なネーミングである

          制限をかけることで推進力を得ているのならば

          自分自身を制約、決まりごとで縛ることによって行動に移すためのハードルを下げるという話について考えている。 例えば、自室にいては作業がすすまないからと喫茶店に出向き、そこで作業を進めること。自分の部屋にいては雑多な情報に振り回されてしまうから、あえて選択肢が限られた場へと、自分の行動を縛ってみる。 前回の記事では、執筆自体を意識・言語という制限下で現実を捉えるといった趣旨であれこれ考えてみたけれど、そのもうすこし具体的なお話である。 この作業の縛りプレイを色々なレベルで捉

          制限をかけることで推進力を得ているのならば

          文章を書くことで救われる。

          文章を書くことで、救われている。 文字を読むことで救われている。 複雑な現実を、複雑なこの心境を、ひとまず大雑把な形として捉えることができる喜びで、私は救われている。 実際に、イライラと曇りに曇った気分がすーっと退いていく瞬間を体感することがある。感情や思考を文字にするっていうのは、ただ記録をするだけじゃないんだ。文章を書くことは、すなわち、現実を諦めて受け入れることに直結するのだ。子供のまま大人になることなんだ。 この曖昧で取り留めもないカオスな心情に形を与えて、ある

          文章を書くことで救われる。

          即物的な話だから、死

          快楽が即物的か観念的かを考えることに意味があるのかどうか。 他人と一緒にいる時に得られる快楽は、ほとんどが即物的なもののように思われる。しょうもない。自分一人の住処へとせっせと持ち帰ってようやっと、しょうもない、と思うことから逃れた1つの考えへと向かうことができる。 四六時中ずっと人と一緒にいることに耐えられる人間ってなんなのだって思う。底が浅いのか、はたまた底知れないのか。それともただの化け物か。 他人と一緒に過ごすことは、なぜこんなにも疲労が溜まるのか、ということに

          即物的な話だから、死

          言葉と事物はイコールではないのだから。

          言葉そのものが事物と1対1で関係していると思い込んでいる人達がいる。それは、私を含めて皆がそうなのだと思う。 なぜならば、言葉をつかって何か特定の物事を示すことができると信じることでコミュニケーションは成り立っているからである。 例えば、私が恋についての話を始めたとしよう。 「恋って〜〜〜で〇〇○だよね」 と話し始める。そこで聞き手は「恋」という概念をそれぞれがそれぞれの形で頭の中に立ち上げる。だが、ここで立ち上がった想念が「恋」という言葉で指し示す辞書に載っている定義

          言葉と事物はイコールではないのだから。

          指示語は抽象化が得意な人間にしか伝わらないという思いつき。

          これについては、本当に思いつきであり、何の根拠も無い。 前文で、「これ」として指示したものは本記事のタイトルである。 指示語(これ、それ、あれ、どれ)にて、物事を指し示すということについて考える。 まず、指示語が伝わるということは、その文の置かれている文脈を理解しているということである。 つまり、 「これについては、思いつきであり、何の根拠も無い」 と、突然に脈絡もなく読んだのでは、何の意図も伝わらない。 「これ」という箱に詰められている概念、物事についての合意、

          指示語は抽象化が得意な人間にしか伝わらないという思いつき。

          知識として残したいもの、創作として文章に起したいもの。についての雑記

          メモに起したり、考えを形にするのが好きだ、というより常に何かについて考えている自分がいるのだから、それを残していかないと勿体無い気分に襲われる。 この記事は思考の足跡の残し方として、つまり、世で言うところのメモについて、自分の中でまだ上手く定まっていないのだということを残す、メモである。 最近、MacbookとIpadを買った。 これによって、思考の形跡をデジタルに残すことができるようになった。また、手書きの方がいいと思われるものはIPADの手書きメモ(フリーボードやgo

          知識として残したいもの、創作として文章に起したいもの。についての雑記

          目的という手ごわい相手。

          「目的」という、漠として捉えどころのない、捕まえたと思ったその瞬間には、既に自分が飲み込まれているテーマについて考えている。日々は目的の連鎖である。これをしようと思い立った際に、自らが望んでいる未来。その時点において、想像しうる到達点こそが目的であろうか。 そうか、目的とは時間の概念なくしては考えられないのか。 社会はこれをしろ、あれをしろ、こうなるためにあれをしなさいと、無言の命令を常に発している。それは多種多様な形をとって現れる。法律、道徳・倫理、広告、そして自らの意

          目的という手ごわい相手。

          そしてまた、成長する。

          成長とは、想像した未来の自己像へと、今の自分を変えていくことだ。 技術はそのためにある。 安心とは、想像通りの未来に包まれている自分を想定できることだ。 身動きができない、私を押さえつけてくる世界、そんな巨大な手のひらから逃れようと足掻く身体、力感、そこに危険が伴わないと理解すれば、一転、娯楽になる。 僕たちはその狭間で生きている。 適度なストレスを飼いならす。 それが生きるってことだよ。 「二択で迷ったら自分がやりたくないと躊躇った方へ」 なんていう、昭和の教育に平成の

          そしてまた、成長する。

          体内人口削減計画(序)

           我々を人間だと認めてくれるのは誰であろうか。急な問いかけに面食らっているところ申しわけないのだが、話を続けようと思う。  ここでいう「人間」とは常識のある人というような意味合いで使っている。例えば女性はメイクをして、人に会える状態にしてからでないと、外出する際、気が乗らないことがままあると思う。それは暗黙のうちで、女性が社会にまともな「人間」として認められるために求められる必要な条件として、化粧が組み込まれていることを意味している。非常に恐ろしい話であるが。  これは、

          体内人口削減計画(序)

          この笑いは「正しさとありのまま」への執着だ。

           笑いは正しさへの執着だ。人間は人と本心で向き合えば、軋轢や摩擦をいともたやすく生んでしまう。自分の伝えたいことと相手の伝えたいこと、自分の主義主張と相手の主義主張、必ずどこかが食い違い、必ずどこかがひっかかり、悲痛な鳴き声をあげる。そんな時、笑いを潤滑油として使う。自分の中の正しさを相手にその形のまま伝えるために。  自分の思いをそのまま言語化して伝えるのではなく、相手に伝わりやすい形で伝えること、これはコミュニケーションでは当たり前のことだ。しかし、これでは伝えたいこと

          この笑いは「正しさとありのまま」への執着だ。

          「女のさしすせそ」言うほど効果あるか?

           皆さんは「女のさしすせそ」をご存知だろうか。 さ= 「さすがですね!」 し=「知らなかったです!」 す=「すごい!」 せ=「センスいい!!」 そ=「そうなんですか!?」  これらを会話の合間に挟み、男性を褒めることが男性から好かれるために効果的なんだそうだ。「なんで男なんかに媚びないといけないのだ」とお思いのご婦人もいらっしゃるだろうが、そこに関しては同意見なので拳を下ろしてほしい。たしかに、相手を立てた会話は、嫌われることこそ少なくなるかもしれないが、こんな意図的に使

          「女のさしすせそ」言うほど効果あるか?

          心の中の親知らずを僕達は一生懸命治療する。

           親知らずを抜かなくてはいけなくなった。  左下の親知らず君が生えている付近の口腔内の壁で、歯を噛みしめる度に、ねじ曲って育った親知らず君がコスコス擦って刺激しているらしい。口内炎のようになっている。可愛いお顔をひょっこりと出して以来、だんまりを決め込んでいた親知らず君が、この度めでたく反抗期を迎えたということだ。反抗期に突入した歯は抜かなくてはならない。親知らずの生みの親である僕はついに、親知らずの恐怖を思い知らされることになったのだ。(これでもう「親知ってる」だねははは

          心の中の親知らずを僕達は一生懸命治療する。