即物的な話だから、死
快楽が即物的か観念的かを考えることに意味があるのかどうか。
他人と一緒にいる時に得られる快楽は、ほとんどが即物的なもののように思われる。しょうもない。自分一人の住処へとせっせと持ち帰ってようやっと、しょうもない、と思うことから逃れた1つの考えへと向かうことができる。
四六時中ずっと人と一緒にいることに耐えられる人間ってなんなのだって思う。底が浅いのか、はたまた底知れないのか。それともただの化け物か。
他人と一緒に過ごすことは、なぜこんなにも疲労が溜まるのか、ということについて考えている。彼奴等は別になんともないというような純真無垢な表情で、気を遣ったり遣われたり、自分の中の言語を一旦休止させて、異なる次元へと自己を投入している。それができている。
世界に身を置き、早く読書がしたい。ひとりになりたい。そう思ってしまうさなか、なんとかオリジナルの言語を使って会話をしようと試みても、最大公約数的な会話に収束していく。本当にしょうもない。
だが、公平のために付け加えていうならば、いや、それはそういうスタンスをとりたいだけで、ただただ自分が冷静ですというアピールするためのものではあるが、生きるということそれすなわちしょうもないことなのだ。
だって、オリジナルな言語に対応する物事なんてこの世にはもう二度と無いし(言語が立ち現れたその瞬間には間違いなくそこにあったと言えるが)、社会的に生きるということはオリジナルを「汎用」へと置き換えていくことなのだから。
その置き換えを先延ばしに先延ばしにしようとする行為が、俺の性なのだとするならば、これがモラトリアムの正体なのだ。
だから、みんな大人だね。って言って、はいそれで終わり。ちゃんちゃん。っていうそんな話なんだ。だけど、子供だよと遠回しに指摘されることが常であるこの世の中に反抗していきたい、してしまう。しょうもない、本当に。
だから、ぼーっと宙を見つめ続けてしまうことがある。飼い犬が深夜過ぎて、なにかがそこにいるみたいに、リビングの一角を見つめ続けているように。だって、なにかがそこにあるのだから。俺にしか見えないものが、たしかにそこにあるのだから。
別に分かってくれなくてもいい。分かることができないということを分かってくれればそれでいい。それすら分からないという人がいることが、俺には分からない。
その場のノリでしか伝わらない物について、ツッコミを入れながら生活をすること、アイロニーをもって生活の只中に存在すること。それがこんなにも苦しいとは。
いいよ、別に、いつか死んでやるだけだから。
どこかに向いた憎悪か殺意か、持て余した言語と感情と煙を飲み込む日々である。
まだ、俺がいて、お前もいる。