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信じることと諦めることの文章。

文章のつながりとは、映像的なものである。

朝、鳥が羽ばたき、人々が行き交い、太陽が沈み、闇に沈んだ街並み、人の気配は既にない。暗転。一台のトラックが猛スピードで車道を走るショット。一軒のボロ屋の前で急停車をする。男が降りる。ベッドで老人が寝ている。鐘が鳴る。赤。ショット。ショット。ショットの連続。

このトラックが日常とは真逆の世界に向かって、何かしら事件を起こす当事者性を帯びて、非日常の物語が始まるのだと予感できる。

文章も同じだという。

接続詞という、意味を厳密に伝える役割によって繋がれていなくても、読者は解釈し、それぞれが各々の物語を立ち上げる。

だから

いや、しかし

したがって、

放られた言葉を安全にキャッチさせるためのガードレール。しかし、その先は危険地帯というわけではない。書き手のプライドや主義主張の屍がゾンビのように這っている。それだけ。

言葉を投げる。言葉はひとつではない。ひとことで、散弾銃のように散らばるワード。どこに放られた言葉を捕りにいくか、そして、その次はどの言葉を捕りにいくか。点と点が結ぶ線。不断の運動の連続が読者の脳内では起きる。

この線が、意味となり、物語となる。

もっと信じなければならない、読者を。
もっと諦めなければならない、言葉を。

投げられた言葉にぶらさがるのは読者だ。言葉にはパラレルなイメージが付き纏っている。言葉は点のように見えるが周囲に生態系が栄えた空間が存在する球である。言葉の中心点にぶらさがって、読者はそれぞれの世界の中で1つのイメージを捉える。捉えた気になる。

書き手のイメージにできるだけ近づこうとするのか、あくまでも生態系そのものに感じ入るのか。生態系には故郷の景色がある。ノスタルジーと意味は相容れない。

意味に侵されなくてもよい。

読者はまた感情にもぶら下がることができる。

快、不快。喜びや悲しみ。同じようなレベルの感情は同じ生態系の中で息巻いている。だから、人々は共感し合うことができるし。すれ違うことが"できる"。

意味を超えた先、詩人が文章によって喚起するものは意味の先である。
意味の先とは、端的に言えば感情である。感覚である。

詩人はガードレールを設けない。諦めているのではなく、諦めずに諦めらめている。諦めずに諦めるとは、信じるということだ。

私は、諦めると言うことがコミュニケーションの最良の方法だと思い込んでいた。だが、信じることもまたコミュニケーションとして大事なはずだと思いたかった。






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