そしてまた、成長する。
成長とは、想像した未来の自己像へと、今の自分を変えていくことだ。
技術はそのためにある。
安心とは、想像通りの未来に包まれている自分を想定できることだ。
身動きができない、私を押さえつけてくる世界、そんな巨大な手のひらから逃れようと足掻く身体、力感、そこに危険が伴わないと理解すれば、一転、娯楽になる。
僕たちはその狭間で生きている。
適度なストレスを飼いならす。
それが生きるってことだよ。
「二択で迷ったら自分がやりたくないと躊躇った方へ」
なんていう、昭和の教育に平成の啓発を混ぜ合わせたような名言もあるけど、それだって、自分で操作できると確信できる世界の範囲を地道に広くしなさいという教えだ。そうやって、自分ができることの範囲を押し広げていくのが、大人になることだとさえされている。
我儘になりなさい。できるだけバレないように。
最近考えるのは、自分が思った通りに世界を動かせることの何が偉いんだろう、ということだ。いや、誰も偉いなんて言ってはいないことだって本当は理解している。ただただ、社会のありよう、社会の求める人間像に嫌気がさして、反発したいだけなんだから。それが今社会を動かしている原動力だから。そこに善いとか悪いとかいう道徳観は入り込まない。ただただ社会を膨張させて、平常運転させていく。それは正しいことなんだ。正しいことって言うのは社会の多数派におさまるっていう意味だ。一方で、自分の心の奥深くの方で、本当はなにもかもを支配したいことだって気づいてる。それは自分に安心と喜びをもたらすから。ユーモアでまるめこむ。自己卑下を武器に。ほら、もうちょっと眉をひそめて。生存戦略、生存戦略、生存戦略。脳みそが生存確率を上げる行動に、はいこれが報酬だよと快楽物質を垂れ流す。そういう生き方しかできないんだろうか。
じゃあ、愛想笑いから辞めたら?
自分1人だけが存在する世界に生きているならば、すべてを支配する考え方はとても理にかなったものだとも思う。だけど、この世界には主体がたくさん存在する。自分の思い通りと他人の思いどおりがぶつかってしまう。その衝突を避けるためにできるだけ平穏な毎日を望むことは、大人になることからの逃避だと言われてしまう。早く老人になりたい、とか、消えてなくなりたい、とか、貝になりたい、とか、そんな厭世、ただただ甘ったるい悟ったふりを装甲につかって生きたくはないけど、そんなことができるほど何も知らないけど。
でもこんなことを安全な自室にひきこもって書き続けることができるのは、社会の多数派にいて、くいっぱぐれることのない生活ができて、他人の苦しみを自分の安全を犠牲にしてまで助ける気がないということの証明。誰かの思い通りにフリーライド。目の前に見える不条理には生物的な反応をするくせに、自ら進んで社会の暗部を見に行かないという不純。今日もだれかの従順さで回る世界に住んでいます。
一生、子供のような考えを抱えて生きていくのだろうか。子供と大人という二分法に侵されて世界を覗き込むこと自体、この世界に敗北したということかもしれない。抱え続ける不全感。言葉になっていない悪口になじられ続けている感覚。どこまでいっても冴えない自分。
疲れてるんだよ、もう寝たら?
頼むから、自分の思い通りに社会を変えていく力を手に入れることを、成長と呼ばないでほしい、呼ばないでほしいと世の中に訴えることですら、この世界では、成長と呼んでしまう。