文章を書くことで救われる。
文章を書くことで、救われている。
文字を読むことで救われている。
複雑な現実を、複雑なこの心境を、ひとまず大雑把な形として捉えることができる喜びで、私は救われている。
実際に、イライラと曇りに曇った気分がすーっと退いていく瞬間を体感することがある。感情や思考を文字にするっていうのは、ただ記録をするだけじゃないんだ。文章を書くことは、すなわち、現実を諦めて受け入れることに直結するのだ。子供のまま大人になることなんだ。
この曖昧で取り留めもないカオスな心情に形を与えて、ある程度整えてみて、自分の外に放り出すこと。取り出すだけではなく、文脈を随時確認しながらの出力を通して、外部の目線を手に入れること。
通常、人間の思考は言語で行われる。図やイメージでも行うことができるなんていう人もいるが、日々のコミュニケーション自体は言語で行なっている。あんたの教育もコトバによっておこなわれ、あんたの倫理も言語によって獲得されている。
そんな言語は存在自体が事物の模造品、代替品であり、生まれながらの欠陥品であり、俺たち混沌の頼れる相棒でもある。
あんたの思考がイメージで行われていると言い張るのなら、それでもいい。見たこともない宇宙のイメージがあんたに想起できるように、教科書で見た原子のイメージをあんたが想起できるように、顔のない人間の夢をあんたが見るように、実際にはそのようではあり得ない物事を抽象的な仕方で思考することは、まったきの言語の本質である。それらのイメージは象形文字の次元と言えるのかも知れない。
この事物の単純化を通して、俺ではないもの、俺の中の感覚感情五感悟性それそのものではない状態を作り出す。
『意識とは言語を用いた再帰的観察である』
意識とはそのようなものでしかないのならば、常に俺たちは夢をみているのだ。現実こそ夢である。そんな現実を明晰夢のように捉え直すことができる作業こそが、文章を書くという行為なのであろう。
執筆とは明晰夢である。我ながら至言である。
であるならば、「執筆」について、執筆することは明晰夢を記録することだ。
だが一般に明晰夢を記録すること、夢日記をつけることによって悪夢が訪れるとも言われている。
だが、ここでの記録は心配がいらない。
なぜならば、現実はすでに悪夢なのだから。