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デジャブ。

あ、この感覚どこかで味わったな。
あ、この光景どこかで見たな。
あ、前にもこのシーンを私は経験した

と感じることが「デジャブ」と呼ばれている。
デジャブについては詳しく調べたこともないし、学術的知見がどこまで溜まっているものなのかは知らない。知らないけれど、これは人間の限界を示すものであると、うすうす感じている。

人間の感覚には限界がある。

例えば、どんなに嬉しいことがあっても、人間の脳みそは物体である以上、その物体が放出できる幸福物質の総量にも限度があるだろう。痛みや悲しみにも同じように限度がある。物体の持つエネルギーは一定なのだから。

そんな限度のある脳みその中では、身体がどんな体験をしたところで、それに伴って脳みそが生み出す感情ってのも、物質が生み出すことのできる感情の総量以上の出力はできない。

つまり、私たちが経験する現実にはあれこれと複雑な様相があるけれど、脳みそが受容できる刺激、そして私たちが感じることのできる感覚には、ある規定の限界値がある。

だから、前と全く同じ体験をしたというわけでもない事柄にも、脳みその能力の限界が、私たちにデジャブを引き起こす。

これがデジャブの大部分だと思う。

それに、私たちは鈍感だ。
幸せだとか、嬉しいだとか、悲しいだとか、言葉にすれば多くても数十個に絞られてしまいそうな感覚を、どうして言葉以前には複雑な感覚があると信じることができるんだろう。

私たちが「語彙力がない」と叫ぶように、脳みそが「語彙力がない!」と叫んでいるそれがデジャブなのかもしれない。

でも、だからこそ私たちは比喩表現を上手く味わうことができる。

私たちがとても敏感で、事物一つ一つに詳細な感情を覚えていたら比喩は成り立たない表現方法だったろう。

秋のように悲しい匂いがした。

秋を通して感じた私たちの感覚が、悲しみと聴いて私たちが思い出すあの感覚が、私たちが鈍感なばっかりに似通っている。

あなたが今日感じたデジャブの正体は、いつかの秋の匂いかもしれない。



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