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目的という手ごわい相手。

「目的」という、漠として捉えどころのない、捕まえたと思ったその瞬間には、既に自分が飲み込まれているテーマについて考えている。日々は目的の連鎖である。これをしようと思い立った際に、自らが望んでいる未来。その時点において、想像しうる到達点こそが目的であろうか。

そうか、目的とは時間の概念なくしては考えられないのか。

社会はこれをしろ、あれをしろ、こうなるためにあれをしなさいと、無言の命令を常に発している。それは多種多様な形をとって現れる。法律、道徳・倫理、広告、そして自らの意思。

社会が、不要不急だと行動の善悪、価値基準を置くことに必死になっていた
のだから、ここから逃れることは一筋縄ではいかないことなんだろうけど、今この一瞬においてはそいつらを忘却の彼方へと押しやってしまおう。そう思えるだろうか。

自分の規定した未来から外れることは羞恥を喚起するなあとは思っていたけれど、これもまた目的という意識だったんだ。操作とか、成長とかね。

ハンナ・アーレントは「目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。」と看破しているが、目的は規範意識を作り出すのだから、確かに、深く得心がいくのである。

タイムパフォーマンス、コストパフォーマンス、これらの言葉の前提となるのは「費やした時間及び金額」と「得られた○○」との相対性、対比である。さて、この「○○」こそが目的であろうか。

目的には、ある地点として設定された瞬間に「無駄」も同時に定義するという性質がある。目的を設定した瞬間に、無駄という概念が共に生まれるとすれば、効率化っていうのは無駄を生み出している張本人でもあるわけだ。

自分だけの狭い視点で、無駄を量産しているのだとすれば、それは愚かなことだとも言える。じゃあ、規範を作らずに生きていくってのはどういうことなんだろう。人生の脱目的化。それが、最近脳味噌の中を占める大きなテーマである。

少なくとも、人が自分を慰める、褒めることを止めることで、人が病んでいくのならば、自らの行動を評価するとき、1つの到達点を念頭に置くことにはなる。だから、評価をするフェーズより前、行動の途中で目的を意識しないこと、規範に縛られないことを目指すべきなんだろう。

自分を好きになる方法として、とあるYoutuberが毎日のルーティンをつくり、それを日々こなすことで自分を褒めてやろうと主張をしていた。社会が規定した目的から外れてしまっている自己の行動を、また別の規範を設けることで再評価してやるという、ズラシのテクニックだと考えられるけれども、これだと結局新しい無駄を作り出すことになっている。別にいいけど。

じゃあ、なんの指針も持たずに生きるとはどのような状態のことを指すのだろうか。繰り返すが、それを考えることが最近のテーマである。

なんでそんなことを考え出したのか、思考の起点にまで戻ろうとしたけれど、もう思い出すことができなくなってしまった。行動の前に評価というフェーズを一旦挟むことってもったいないよな、なんてことを思っていたのかもしれない。だから、ファスト映画とかの新書も読んだんだ。

読書をして自分に刺さったと感じるテーマは総じて、ここに結実するようなんだ。ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」とかね。

目的が規範を作り出し、規範を避ける生き方をするべき。という、べき論を無理にねじ込んでみれば、規範を作り出さない目的論。規範の代わりに制約だけを連れてくる目的を想定してみたくなる。

ふぅ。

とりあえず、散歩するか、解脱するかをしないと。



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