制限をかけることで推進力を得ているのならば
自分自身を制約、決まりごとで縛ることによって行動に移すためのハードルを下げるという話について考えている。
例えば、自室にいては作業がすすまないからと喫茶店に出向き、そこで作業を進めること。自分の部屋にいては雑多な情報に振り回されてしまうから、あえて選択肢が限られた場へと、自分の行動を縛ってみる。
前回の記事では、執筆自体を意識・言語という制限下で現実を捉えるといった趣旨であれこれ考えてみたけれど、そのもうすこし具体的なお話である。
この作業の縛りプレイを色々なレベルで捉えてみる。
日々の思考が常に作業ベース、具体ベースである人。
俺は本当に尊敬するのだが、このような人々は目の前のタスクそのものに思考を限定できる人だ。
自分の注意力に欠陥があると思って、俺は人生をここまで生きてきたのだけれど、思うにこの制限を人生の瞬間瞬間単位でかけていないことが要因なんだな、と思うわけである。かけていないというか、かけられない。
目の前のタスクに暫時とりかかっていたところで、そのタスクと他の物事との連関を考えてしまう、とか。1つに絞りきれない感覚を常に味わっているような気がするのだ。だから、物事を進めていくという作業自体に嫌気がさす。
しかし、翻って考えてみればこれもまた一種の制限だという気がする。
つまり、単純にひとつの物事を進めていかない、という制限である。
俺は俺の制限をかけている。おまえはおまえだけの制限をかけている。
物事をうまくすすめることができない人間はそんな人間なりの、偏った思考という制限を常に味わっている、と思うのだ。だからお前にはお前のオリジナリティがあるんだね。
だけれど、この制限が規範に取って代わられないようにする必要性についても、考えていかなければならないとも思う。
それがたぶん、この記事につながる。
それをすること自体、制限をかけること自体を目指してはならないのだ。
なんだか机上の空論めいて響くけれど、身を置く環境自体を変えるとか、寝起きの頭で執筆してみるとか、ドラッグで創作するとか。制限が規範にならないように、しれっと制御されるような創作論ってよくあるから、これってそういうことだと思うのだ。
宗教とうまくつき合うって、こういうことだとも思うよ。
自らの言動によって制限を受けることを「自縄自縛」と言うけれど、
本当は、制限をすることで言葉を生み出しているんだね。
これが自縄自縛の創作論。
縛ったことを忘れずに。