「ノルウェーの森」はカジュアルティーズを弔う戦記である
都電で再び村上春樹ライブラリーに行ってきました。確認したかった『村上春樹全作品 1979〜1989』第6巻の付録「自作を語る」で、無事読むことができました。
発売当初のキャッチコピーが「100%の恋愛小説」だったそうです。そもそも恋愛小説と言う言葉から、どの程度の恋愛をイメージして読むのかが、評価の分かれ目なのか、と思っています。恋愛小説だからハッピーエンドで終わるはず、と言うのも思い込みかと。
自作を語るから「ノルウェーの森」執筆時の目的が3つ書かれています。
現実の恋愛って全く成就しないし、好きになった人から冷たい仕打ちや、思い違いも当たり前。まして、この物語にあるような好きな人と心は通えど、体は通わせる事はできない事もある。
思い出したのは大学生の後輩で大好きな彼氏と満足なセックスできない、絶望的に体の相性が合わない、と相談された事。精神的な充足と、身体的な充足のバランスを取れない恋愛はいたって普通にある。
自分だと思い出したのは、好きな子が自分の大嫌い男を好きになったり、その子とセックスしてたら、普通に傷つくというか、気分的に良いかと言われたら、それは苦しい記憶でしかないでしょう。でも、その感情を抱えて生きなければならない。
そして、もし恋愛とセックスの描写をすべてカットして、この物語が構成されていたら、重すぎて読めないはず。
身近な人は死を選び、その死によって自分の存在意義も問われる。自分に思いを寄せ、大事してくれる人とは交われない。自分が知り合った人は、自殺を選んでいく。それを止めることもできない無力感と絶望。しかも、若干20歳前後で、その経験を体験していくのは、普通に辛すぎる。
充実した生を好きな人と精神的、肉体的に満たされた状況と言うならば、この物語は逆説的に描いている、徹底的に成就させない、上手くいかないようにしている。だからこそ、100%の恋愛(リアリズム)小説と言えるのではないでしょうか。
そして、もうひとつのテーマとして、村上さんの解説にもある「カジュアルティーズ」の理解が重要だと思っています。
カジュアルティーズを調べたところ「戦争等で戦死した友」の意味もあり、その時代を生きた戦友達の記録を、フィクションに逃げず、赤裸々に描くこと。だらしない大学生の生活感の日々も生々しく書く。
あと、小説の時代感を考慮して読むのかも大事かと。時代設定が1960年代の大学生なので、今の大学生が同じ恋愛感であるとは、とても思えない。そのギャップを考えずに、主観的に読むと、拒否感や違和感につながるのかと思います。
著者の意図を考慮して読むとまた違った印象になるのではないでしょうか。