ポジションが異なるから評価しにくい
久しぶりに村上さんの作品を読みつつ、作品か作風にかかわる評価を確認したく評論系の本を調べてみる事に。
で、昔読んだと思われる内田樹さんの本がある事を思い出し、図書館で借りて読むことに。前に読んだ清水良典さんの「村上春樹はくせになる」があるのですが、昔すぎて記憶がない。
返却してしまい参考となるページや引用は曖昧ですが、まずポジションについては、そもそも日本文学の文脈にいないと言う指摘があり、日本的な文脈で描写的に暗い陰鬱だったり、性描写も生々しい、とも。
読書の方も理解できると思うのですが、主人公はどこか諦観をもって淡々と日々を過ごしてる。この諦観が憂うつな感じがなく、どこかカラッと乾いてる。悲壮感が薄い。湿度が低い。
「ダンス・ダンス・ダンス」を読むと、物語の骨子は前作の謎を引き継いだ謎解きのハードボイルド、あるいは推理小説風である。が、さりげなくラブストーリーが塗してある。
そして、性描写って何回かあっても、短いし、性描写と言えるほどの生々しさはない。極端に言えば単語が並ぶだけである。なのに、内田さんも指摘するように、とてもエロい。
それは、作者の考える性的な表現は書かず、前後の文脈、ストーリーの流れから読者が想像が肥大化し、イメージを好きなだけ膨らませるだけの余白があるからだと思います。
ポジションの話に戻すと、作中にも日本の文学者の名前は出てくるが、そのエッセンスのみでは書かれていない。むしろ、海外文学、ライフワークと取り組んでいる翻訳した作品に中にあると思われる。
モノ作りのオリジナリティって、実質的には本人が触れたもの、聴いたもの、知っているものを、作者目線のエッセンスを濾過、あるいは圧縮、あるいは思いを濃縮し、類似性はあるが、単なるモノマネにならない、その人のエッセンスによって、表現される事だと思います。
内田さんの指摘によれば、「羊を巡る冒険」はレイモンド・チャンドラーの「The long goodbye」を下敷きに、あるいは本歌取りだったでは、と。
村上春樹は日本的な文学の文脈にいないと思うのが、下敷きにあるいは、音楽の作曲する際に参考にしてる形式が違うのだから、その文脈では評価できない。もちろん日本的な文学を理解していないのではなく、ジャンルの異なるフォーマットになってしまったが、適切なのかと。
日本人が書いた本だから、日本文学の枠組みで、評価しなければならない、と言う理由はないのに、評論家は自身の専門分野の土俵に上がってきたのであれば、評価したいが、そもそも競技の種目、ルールが違うので評価できなかったのだと。
本人は、文壇のために書いてるわけではないので、無視されてたように意図せず見えてしまい、評価不能、不成立になったのでしょう。
内田さんの指摘を初期の頃から認識していた人がいます。石田衣良さんです。この記事を書くためにいろいろ探してて、見つけました。
「羊を巡る冒険」の評論がとても良く、村上作品のポジションを確認するためにも。是非一読を。
追伸:
「ノルウェーの森」を読んだ後だと、この時に思った印象も異なるので、また今度まとめてみようと思っています。