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BIO+FORM 考 自然と建築の幸せな関係 建物の周りと協働する柔らかい技術

住まいにとって、温熱環境と並んでとても大事なこと、かつクリティカルなことは、実は「水」である。
熱環境は厳しい環境でもなんとか凌げる可能性があるが、水の供給と人の「排泄」はその仕組みが成立していないとなんともならない。
それは災害が起こるたびにその必要性を痛感するが、どういうわけか、こちら方面の対策、対応というのは後手になっているような感じがある。

先日、排水の浄化や、コンポストトイレの研究者と話をする機会があった。
彼とはかつてあるプロジェクトで合併処理式浄化槽を作る機会を一緒にさせていただいた。彼が浄化槽設計マニュアルと首っぴきで設計し、とある外国の場所で、手作りの浄化槽を作ったのだった。あの仕事は実に楽しかった。

さて、彼の研究趣旨として、住まいから排泄される、排水、汚物の類の浄化、を植物の力を借りて行う、という発想があり、それに私も大いに共感した。

現代の建物、とりわけ住まいもそうだが、とにかく、建物に機能と性能を負わせ、どんどん高性能化することで対処していこう、というきらいがある。
ここの稿でも度々取り上げているが、現代は、ある課題に対して「ある技術」で対処していく機械的な環境主義が幅を利かしている。ので、排水処理もある特定の技術で対応していこう、という動きがある。いわゆる高度なフィルター技術である。
先の災害対応で、排水をこの技術で処理し、循環利用する、という技術が注目を集めている。災害対応、という喫緊の現場では大変有意義な技術である。この先の発展にも期待したい。が、それが日常の住まいの技術としてインストールされる可能性があるか、というとちょっと懐疑的である。

結局交換式のフィルターに頼ることになるので、そのフィルターの入手がこの技術の鍵となり、それが高価だと社会化するにはハードルがある。電池みたいにどこでも入手できる、という共通のプラットフォームで安価に手に入る、というようなところまで降りてくれば可能性はなくはないかも。しかし、浄化装置は機械である以上、壊れることはあり、メンテナンスが必要でまだまだハードルは高い。一つの特定の技術に「依存」してしまうことのリスクを考えると、こうした技術体系は正直なかなか難しいと思う。(事実、ある知り合いの大学研究者が20年ぐらい前に住宅向けの雨水浄化システムを開発しようとしたが、同様の理由で断念した、と記憶している。)
温熱環境への対処もそうだが、昨今は性能ばかりが高くなり、そのアドバンテジを取ルべく競合他社に負けまいと、「性能競争」に陥っている。その結果建物はますますヘビーになり、コストも増える、あとあとのメンテナンスの要素もコストも増える一方である。
しかし建物のハードの技術だけで頑張るのではなく、建物の周りの自然や生態系、いわゆる植物、微生物、土などの力を借りながら、協働しながら環境を整えていく、という技術的思想も大事ではないか、と毎度思うわけである。
建物の中だけで完結する循環、って大丈夫? と。
この環境の時代にあって、技術の幅を持たせておくことは大事であり、「技術」を否定するものでは全くないが、住まいの周辺に関する技術について言えば、もう少し人肌に合う技術思想に立ち戻っていく必要がある、と思う。
温熱環境を整えるのは、通風とそれをバックアップする建物周辺の「微気象」がまずは基本だろう。
それは煎じつめると、周りの植物の力であり、土とその土壌の保水性などである。
また、別筋の話だが、長野地方のある場所では、昔、冬になると、建物の周りに茅を並べ乾燥と防風の役目を持たせ、少しでも建物が冷えることを防ぐ工夫をしていたという。ここでもうまく植物を使っている。

排水浄化の仕組みでも、コンポストトイレをはじめ、バイジオフィルターなど、微生物や植物の力を借りながら環境負荷を減らし、折り合いをつけていくというような技術がある。
いずれも人が介在しながら、柔らかく建物の外部の領域との協働をする、という仕組みがいい。

かわいいNZのコンポストトイレ
排泄は資源 循環がつながる

最近竣工した「ちっちゃい辻堂」のプロジェクトでは「微生物舗装」なる仕立てを建物周辺に施し、土中環境の改善、保水性の確保、微気象の形成などを生んだ。
そうして、まちのインフラや大きな技術に依存する度合いを少しずつ減らしていくことを意図している。
現代の住まいは、建物だけで頑張っている、と書いたが、実はその「つけ」は都会のヒートアイランドを引き起こしていたり、相変わらず巨大なインフラなしでは成立しない、というようなことで、どうもバランスが悪い。
では、微生物、植物、土の機能に期待する技術は手放しで良い、かというとこれだけ自然を蔑ろにし、自然との付き合い方を忘れてきた状況に対して、人側がもっと歩み寄り、本当の意味での理解をしないと、相変わらず「自然」という仕組みを「利用」する「装置」的な扱いしかしない、という危惧がある。(生命環境主義)
やはり、こうした柔らかな代替技術を考えていく上では、大地を汚さない、が前提だろう。生き物を飼うような優しい眼差しで付き合うことを獲得しつつ、ハードな技術への依存から柔らかな技術への転換を図っていくことが必要だと思う。
こうした技術は、「世話をする」ことでその仕組みは永続的に続くだろう。機械は壊れたら終わりである。

「ちっちゃい辻堂」の「微生物舗装」

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