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総理大臣のいない国家、それが日本!!(憲法夜話)④
憲法とは、生命、自由、財産の保護という、国民の基本的人権を守ることを最大の使命とする・・
戦前では大臣命令は絶対だった
官僚は大臣に逆らってはならない。
それは臣下が国王に反逆するのと同じことである。
この「常識」は、戦前の日本ではきちんと貫かれていた。
その証拠を一つ挙げてみよう。
戦後の自虐史観歴史教育のおかげで「戦前イコール暗い時代」というイメージが根付いて久しい。
しかし、現実の歴史を見れば、決して戦前の日本はすべて真っ暗であったわけではない。
それどころか現代の日本に比べれば、戦前の日本のほうがずっと近代国家としても立派だったし、デモクラシーも行なわれていたのである。
昭和2年(1927)台湾銀行が経営破綻したときのことである。
台湾銀行は、日銀、朝鮮銀行と並ぶ中央銀行の一つであったのだが、その主要貸し出し先だった貿易商社の鈴木商店が経営悪化したために、巨額の不良債権を抱え込むことになった。
この台湾銀行の経営危機が国会で明らかになったものだから、金融界は文字通り震撼した。
その恐怖は平成の長銀や日債銀の経営危機とは比べものにならない。
ただでさえ金融恐慌で日本経済はノックダウン寸前になっている。
今の日本経済に比べれば、当時の日本の国力はまだまだひ弱である。
そこに中央銀行の台湾銀行が本当に破綻し、金融パニックが起きれば、日本の経済そのものが破綻に追い込まれるかもしれない。
そこで当時の若槻礼次郎内閣は、この台湾銀行を何とか救済しようとしたのだが、救済案は政争のあおりを受けて、枢密院(旧憲法で、国家の大事に関して天皇の諮問にこたえることを主務とした機関)で否決されてしまった。
その結果、とうとう台湾銀行が休業するという最悪の事態を迎えることになった。
若槻内閣はただちに総辞職して、首相は野党党首の田中義一に代わった。
この危機を乗り越えるために、田中新内閣の蔵相として迎えられたのが高橋是清である。
高橋是清の波乱の人生については、ここで詳しく述べるだけのゆとりはない。
仙台藩の足軽の養子として育ち、十四歳で藩の留学生となってアメリカに渡ったものの、悪徳商人のせいで年季奉公人として売り飛ばされ、奴隷同然の生活をするという異例の青春を送った高橋も、このとき、すでに70歳を超えていた。
蔵相、首相を歴任し、2年前には政友会総裁を退いた身である。
だから田中義一首相が「ぜひ、この難局打開のために」と高橋に蔵相就任を懇請しても、最初、彼はそれを固辞した。
しかし、ついには高橋はそれを承諾する。
つづく
【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)
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