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真実の日米関係史⑥
ロシアとイギリスのグレート・ゲーム
その後、日本は日清戦争(1894〜95年)に勝利し、日露戦争(1904〜05年)が起こります。
日露戦争というと日本とロシアの戦いのようですが、当時の日本はイギリスの代理人でしたから、東アジアにおけるイギリスの代理人としてロシアと戦ったというのが実情です。
どういうことかというと、02年に結ばれた日英同盟がそういう性質の軍事同盟だったからです。
日清戦争に勝利した日本が、下関条約で中国(清国)から遼東半島を獲得したことに対して、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、その返還を迫ってきました。
日本単独ではこれら3大国に対抗することができず、悔し涙を呑みます。
このとき、日英同盟があれば、三国干渉の圧力に唯々諾々として従うことは拒否できたというのが、陸奥宗光ら当時の外交エリートの想いでした。
そこで、中国と朝鮮半島における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的として、日英同盟が締結されることになりました。
これにより、日本はロシア帝国とようやく相対峙する体制を整えることができました。
悪く言えば、大英帝国の東アジアにおける代理人になったのです。
しかし、現実的なパワーバランスの中では、それが最も賢い選択であり、独立を維持するためにはそれ以外の選択はあり得なかったでしょう。
※
ロシアとイギリスは、当時対決する運命にありました。
このアジアの覇権をめぐる大英帝国とロシア帝国のぶつかり合いはグレート・ゲームと言われています。
ロシアはランドパワー、すなわち大陸国家ですから、ユーラシア大陸を南と東へと進んで自分たちの領地をどんどん拡大していました。
北はバルト海方面、南は黒海・バルカン半島方面に目標を置く一方、カフカス地方からイランに進出し、中央アジアのトルキスタン地方からアフガニスタンやインド方面まで勢力を伸ばそうとしていました。
ロシアは早い時期から、ユーラシア大陸の東、ウラル山脈を超えて東進し、さらに中央アジアからインド洋を目指して南下していきました。
ロシアは東方面へは妨害がなくシベリアを東進し、ついに黒龍江方面に進出してきたところで、中国とぶつかっています。
両国は1689年(元禄2)にネルチンスク条約を結んで、国境線を確定します。
しかし、機会があれば南下してくるのが、ロシアです。
これで留まるわけはありません。
イギリスは、アフリカ大陸の南端でケープタウンの植民地(後の南アフリカ)を獲得します。
その後、フランスの外交官・実業家であるフェルディナン・ド・レセップスが1869年(明治2)にスエズ運河を完成させると(その後イギリスが買取)、イギリスはここを押さえ、アジアに対して本格的な帝国主義政策を取るようになります。
インド植民地も直接支配の時代になっていきます。
かくして、イギリスは海洋国家として、アフリカの喜望峰を回り、中東さらにインドを制圧し、マラッカ海峡を経て、マレーシアから中国大陸まで進出してきます。
・・つづく・・
次の記事『英露ふたつの大国がぶつかったのが日本だった』
【参考書籍】「太平洋戦争の大嘘」藤井厳喜著(ダイレクト出版)
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