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真実の日米関係史⑦
英露ふたつの大国がぶつかったのが日本だった
ランドパワーである大陸国家ロシアが陸伝いに東へ東へとやって来る。
シーパワーである大英帝国はユーラシア大陸の南の淵を通りながら、それらの地域を次々に植民地化していきます。
ふたつの大国がぶつかったらどうなるか。
初めての対決の場はアフガニスタンでした。
まず、ロシアがアフガニスタンに勢力を伸ばそうとしたことに対して、イギリスはインド権益を防衛する目的で、アフガニスタンに進出して、アフガン戦争が起こっています。
しかし、英露両国ともアフガニスタンを完全征服することはできませんでした。
そして、イギリスとロシアというふたつの帝国の勢力が本格的に衝突したのが、19世紀中頃の日本だったのです。
幕末の頃に、ロシアは日本に盛んに使いを寄こして開国を迫っています。
イギリスは薩英戦争や馬関戦争(下関戦争)で直接日本の内政に手を突っ込んできます。
ふたつの帝国の勢力が日本の地で交わるのには、そういう背景があったわけです。
幕末の日本に、この状況を冷静に分析している人物がいました。
越前藩の橋本佐内という人です。
藩医の家に生まれ、尊王の志士として活躍しました。
残念ながら、安政の大獄で早くに刑死してしまいます。
佐内は当時の世界の大勢を見て、「日本は、イギリスと組んでロシアと戦うのか、ロシアと組んでイギリスと戦うのか、このどちらかを早晩、決断せざるを得なくなる。しかし、いずれにせよ、そのときに必要なことは、日本が近代的な統一国家になっていることだ」と、誰よりも早く警告を発していたのです。
左内の予言から50年後、日本はイギリスと同盟を結び、ロシアと戦うことになりました。
実は、日本が日露戦争に入る前、ロシアと組むという選択肢もありました。
ロシアと組んでイギリスと戦うほうがいいんじゃないのかと言う人たちがいたのです。
代表的なところでは、伊藤博文は当初は親ロシア派で、ロシアとの強調を主張しましたが、そういう政治家は、「恐露病」などと呼ばれたりもしました。
ところで、イギリスは、なぜ直接ロシアと戦わなかったのでしょうか?
もし、極東でイギリスが直接ロシアと戦って、自分たちの権益・・東アジアの権益というのはシンガポールから東・・を確保しようとしたら、東アジアに大きな艦隊を配置しなければなりません。
シンガポールあたりを拠点にして、東アジア全体を制圧するような新しい艦隊を作らなければいけなくなります。
それには膨大な費用がかかります。
それよりは、日本をイギリスの代理人に仕立てて、代わりに戦わせたほうが万事都合がいいだろうということです。
それが大英帝国の英智でした。
実際、イギリスは幕末の薩摩藩に兵器を提供し、徳川幕府を転覆させると、今度は明治政府との関係を確立して、極東の日本に近代海軍を建設する大事業に深く関与していくのです。
日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠や金剛は、イギリスのヴィッカーズ社に発注して建造されたものでした。
自分が戦争するより、兵器や軍艦を売ったほうが儲かります。
そして、日露戦争で日本が勝ったということは、同時にイギリスの大勝利でもあるわけです。
ロシアは敗戦のショックによって、対外進出もストップします。
アフガニスタンについても、イギリスがアフガニスタンの体制を変更しないと保証する限り、イギリスが統治することをロシアは受け入れざるを得ませんでした。
ここからロシア帝国は衰退期に入り、第一次世界大戦中の1917年(大正6)にロシア革命が起き、ロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡することになるのです。
・・つづく・・
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【参考書籍】「太平洋戦争の大嘘」藤井厳喜著(ダイレクト出版)
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