Art, Sports, Entertainment, Science, and Management
再びEssential Management Schoolで最新学習歴を更新することにしました。
今回は、アート、スポーツ、エンターテイメントを通じて本質を観取するという3ヶ月。
自分で独自に、サイエンスとビジネスを加えて、ドラッカースクールで学んだ、リベラルアーツとしてのマネジメントに繋げる試みに取り組みます。
初回は、アート、スポーツ、エンターテイメントの様々な領域の一流の方々の「理論の本質」についての共通了解を探ることによって、一流を一流たらしめる要素を探ってみました。
本質についての確認
■「本質」とは、「それ」を「それ」たらしめるようなその事柄の重要なポイント。
■本質は絶対的な真理ではない。多くの人が「なるほどそれは本質だね」と納得するもの。
■「共通して当てはまるものは何か」を「具体」と「抽象」を行き来して捉えていくのが一般的な方法として有効では?
■EMSでは、本質を観取する。それは、そのコトバに対応する「生きた経験の意味」を捉える知的作業。
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理論とは何か:様々な領域の一流の方々の解から見出される共通了解
■かたちづくって完成させるための説明書・設計図。その説明書・設計図はなくても作れるが、より早く骨格を組み立ててお金にできるレベルまで発展させていくスピード感を得ることができるもの。
■成功の再現可能性を高めたり、失敗の再生産をしないための重要ポイントの組み合わせ。
■失敗から「こうしたら良い」という方法を集めたものが理論。
■体系だてられていて説明可能なもの。それぞれのスタイルから、誰かに伝えたり、共感を生んで巻き込んだり、指導に落とし込んだりできるもの。
■構造化して理解するための補助線。どういう補助線を引くかにより世界の見え方は違ってくる。再現性を高めるもの。
■感覚と知性の交差点。誰もが「いい」と思う感覚的なものと先人たちの「知性」が集結したような論理。感性と知性、お互いが納得できる交差点。感覚として知っていたことが理論として書かれていて「なるほどな」となる。
■勉強することで設計図を手に入れる。そこに自分の感性が乗っかって、その理論を知らなければ絶対に作れないものが作れるというものがある。感覚だけではありえないけれど、理論があっていればできるというものでもない。理論通りにやったからといってそれが良いものを保証はしない。
■理論とは再現性。天才は存在するが、それを言語化して伝えるのは理論。理論はアップデートされ続ける。
■型があることは学べる。教えられる。理論がある。型がないことはその限りではない
■体操のように力学が関わる物理的なものは、正解がある。言語化、説明できる。一方、物理的でないもの、生き方は正解がない。問いかけしかできない。
■理論は一貫性につながる。美しさにつながる。一方で主観が必要なところは理論ではいけない。理論とマネジメントは対極に位置することがわかる
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「グッとくる音楽」と音楽理論の関係
コード理論の本の楽譜を演奏してみると、整った「よくある、期待通り」の音がする。多くの場合、グッとこない。
では、グッとくる音楽には、理論を超えたものが入っているのか?
古典的には、BeatlesのLet it beの終息しないコード進行。 秘密はどこにあるのか?
理論はどこまで遵守するのが良いか?
和音は物理的。一方で、その和音から得られる感覚はそれを超えたもの。ここを司るのが芸術?
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スキーヤーの例
スキー理論が当てはまらない強烈に強かったスキーヤー⛷。
本人も現役期間中は、自分の強さの理由、自分がどう滑っているのかを言語化できなかったという。当時スキー界では、この強かった人に合わせて、スキーのルールを変えたという。
スキーは物理学的な部分が大きく、安全に速く滑るという範囲ではほぼ物理学。理論でいける。でも雪面は刻々と変わるので、実際には、マネジメントの要素も必要。
→ 天才は自分ができてしまうことを説明できないことがままある。本人が一番わかっていないことがある。そういうことをできるだけ言語にしていくのが理論化への道筋。
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野球選手の例
一流の野球選手はなぜ唯一無二のフォーム(すなわち理論通りではない)でプレーするのか。
→自分の身体の特徴を活かしたフォームを探究し続けたら、結果的に「変なスタイル」に落ち着いたという可能性
→理論を通り抜けたその上の世界に唯一無二のフォームがあるのではないか
→結果のフォームを真似してもダメで、探究するプロセスをこそ、真似するべきということか
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理論ではじめる。でも、最後はその人らしく。
→吉本新喜劇、志村けんさん。
笑いは期待とのズレによって起こされる。
ズレていない状態を解像度高くわかっているから、巧みなズラしを仕掛けられる。吉本新喜劇も志村けんさんのコントも緻密な台本が存在しているらしい。ここまでは理論。ただその上に「誰がどの味でやっているか」ということが加わる。
その人だけが持っている世界観の枠:そこに見える世界、ビジョンを表現する→それを表現するための技術・理論⇄理論的な台本だけでは辿りつけない。
→これはビジネスでも通じる。TTPS(徹底的にパクって進化させる)と繋がる。そして、誰がやっているか、誰とやるか、これが結構大事。
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感動を科学する
感動の正体とは何か 感動を量子物理学的に分析することが可能だという。→新たなサイエンスではないか 異次元での理論構築の可能性。
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マネジメントの観点から
ドラッカーは「人は自分の弱みはよく知っているが、強みは知らない。知らないどころか間違ってさえいる」という。自分が理論を超えている領域とその中での自分のありようについて、人はどう自覚的たれるか?
型がないライブ仕事。準備ができないことを準備しなくてはならない。ものがなけれは自分でその場で作るという感覚を持っていないとできない。あまりガチガチに固めすぎると自由に動けなくなってしまう。身軽にいってその場で鎧を組み立てる。複雑系なのでマネジメントのアプローチ。マネジメントでアプローチするということは理論化できる。だけれどもその中身の理論化は無理。。。。ライブで起こっていることでは、理論を当てに行くとずれる。その瞬間に起きたことをマネジメントしなくてはならない。
失敗から発想が出てくることもある。発明はほぼ失敗からの気づき。→発明できるかどうかは失敗を別の角度から見ることができるかどうかにある。起こっている事象は事象に過ぎない。その意味性は目的によって異なるのだ。目的を持っていれば失敗は財産。
ビジネスはサイエンス化しやすい。いろいろな理論があって理論通りにやっていればそれなりのところまで行ける。ただその先の大きな差は、マネジメントの領域だ。マネジメントはリベラルアートとはドラッカーの言。サイエンス(理論)だけでは辿りつけない。
経営でも、それまでの常識にとらわれず、本質をしっかり見つめ、自社の特徴を最大限に活かす経営戦略を立案し実行できることが経営者の手腕。
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ノンジャンル考
ノンジャンル 自分にラベルを貼らないということ。
ジャンル分けは本質的な表現やパフォーマンスの探究の邪魔になるという課題。ラベリングは「べき」論の始まり。自由度が減る。卓越できにくくなる。
→マイルスデイビスはビバップから始めて、クール、エレクトリックから、R&B、ラップに。
→これはノンジャンルでは?
残念な現実:ジャンルに入らないと最初みてもらえない。最終的にはノンジャンル目指したくても、ただ最初に看板がないAttentionをもらうのが難しい
→マイルスは自己ブランドがあったからできた。他の領域でも類似例はあるのでは?
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今回の気付きと学び
理論について:
あるところまでもっていくのが理論。天才性は理論とは地続きではない。
→ 目的や取り組む対象ごとに、理論でどこまでいけるかという難易度の軸が存在する。
理論は現実に従うのであって理論に現実が従うのではない。
→ 自然科学の基本の教え:Study nature, not booksと同じだ
理論は、文明の継承ともいえるのではないか。生物としての人生の長さを超えた影響力のことではないか。
基本的には言語化できない領域は理論にならない。でも見倣うことはできる。見倣うというのも広義の理論だろう。ただ見倣うためにはその伝達手段が重要。かつては言語だけだった。映像の記録が残せることは大きなブレイクスルーだと再認。
0→1ができることには価値がある。でも1→10として横展開できることもそれはそれで価値があるのではないか。
技術だけでなく魂までを真似るとたどり着けるところが違ってくるのでは?
理論とマネジメントは対の概念ともなる。
理論<直感 自分の感度がよくないと跳ね返ってこない 感度の高い人と一緒に何かをやっていくことが大切。誰とやるか、は極めて重要。
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今回の結論
目的を持った探究が人の営みの柱。Art, Sports, Entertainment, それからScienceはそうだと思う。Business も真摯に向き合えばそうだ。これはあらゆる仕事に応用できる原理では?探究を助けるのが理論。でも理論だけでは辿りつけない領域がある。