「どっちが正解?」の氾濫を憂うの巻
テレビを何の気なしに見ていたら
「傘の持ち手のビニール袋は剥がすか剥がさないか」
「食品の袋内にある脱酸素剤は開封後に捨てるかそのままか」
みたいなコーナーをやっていた。
「どっちが正解?」と繁華街で人に聞く。
で、メーカーなどに「答え」をお伺いする。
「えー! そうなんだ!」という意外な「答え」もあり、面白い。
が、ちょっと待てよ、とも思う。
こういった「どちらが正しいか」コーナーはよく見かける。
でも、テレビに代表されるマスメディアが日常的に、頻繁に放送するのは、どうなのか?
もちろん無邪気に楽しめる部分はある。おおいに役立つ知識が得られたり、誤解が解けてよりよい行動が選択できるようになることも多い。メリットは確かにあるのだ。
それでも、である。
「どっちが正しい?」
「どっちが正解?」
2つのうちどちらかが「正解」という体で進行するコーナーがあまりに頻繁であると、それを見る者に
「何事にも一つの正解がある=他は間違い」
という意識、思考を植えつけないだろうか??
そんな大げさな。と思われるかもしれない。
でも、日常的にふれるメディア、それも音声と映像を伴ったテレビ番組というものは、必ず視聴者の思考に影響を及ぼす。そこに隠れている「前提」は、明文化されていない分、私たちの知らないうちに頭の中に忍び込んでくる。
メディアが視聴者の思考に与える影響については誰かがどこかで絶対にきちんと研究・発表しているはずだ(曖昧だな)。
すぐに参考文献をあげることができないのは残念だが、体感としてなんとなく、うなずいていただける方も多いのではないだろうか。例えば、特に好きでもない商品・サービスのCMソングが頭の中でエンドレスループ、みたいな現象は誰にも覚えがあることだろう。
また、「どっちが正解?」のフォーマットに当てはめようとするあまり結論の出し方が乱暴・粗雑なのも気になる。
例えば今回の「正解」の一つ、「脱酸素剤は開封後は捨ててもいい(効果がなくなるため)」を
「捨てるのが正解であり、そのまま残しておくのは間違い」と言い換えるのは誤りである。
「捨ててもいい」=「捨てても問題はない」でしかない。
(小さい子の誤飲防止のため捨てた方がいい、とも言われていたが、それでも「正解」という語は妥当とは思えない。幼い子どもがいない場合もあるからだ)
これはTwitterで検索したら同じ意見がすぐ見つかった。だよねえ。
ちょっと立ち止まって考えてみたらわかるはずだが、「どっちが正解?」の文脈に過剰に適応させようとした結果、おかしくなっているのだろう。
それでもこのような雑なまとめ番組が後を絶たないのは、単純な「マルバツ問題」がわかりやすくキャッチ―だからだろう。厳密な表現を心掛けてしまうと、たいへんまどろっこしい内容になってしまう。
また、「あなたのやり方は合ってますか? 間違ってないですか?」と視聴者のプチ不安を煽るのも、視聴率を下げない方策として有効なのだろう。
でも思うのは、
「どっちが正解?」式の思考が視聴者に染みついてしまうことに危険性はないか、その危険性について検討しようという姿勢が制作陣にあるのか、ということである。
世界はもっと複雑なのだ。一言でまとめられないのだ。面倒くさいのだ。
「AとBどっちが正解?」の答えは「C」かもしれない。「場合による」「人による」かもしれない。
そもそも、その問い自体が不適当かもしれない。
「正解」があるという思い込みが心に育つと、「多様性」アレルギーを発症する。
自分の在り方、自分のやり方が「正解」だと思いたくなる。自分はいつでも「正解」の側に立っていると思いたくなる。「別解」が提示されると不安になり、攻撃的になる。
「溺れている人を助けるときには」など、正しく行わなければ人命にかかわるとか重大事故につながることなどは別として、ささいなお役立ち情報程度のものを「どっちが正解?」という切り口で日常的に取り扱うのは、メリットしかない、わけではない、と思う。
※トップ画像はRと行った塩原の大沼園地にて撮影
(↓前にも書いたんだよなこの手の話…↓)
(↓どういうわけか全くわかりませんがビュー数が最近伸びております↓)