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対談は かみあわないから おもしろい(川柳)

『宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか』を読んだ。
佐藤優・本村凌二の対談本である。


「一神教」と「多神教」、「宗教」と宗教ではない宗教

本の中には面白いことがたくさん書いてあった。
例えば↓
【一神教だから他者に非寛容で多神教の方が寛容、という物言いはわかりやすいが居酒屋談義レベルの議論でしかない。問題は一神教か多神教かではない。宗教という形をとっているかですらない。
多様な価値観を受け入れられない状態になると攻撃的になり、危険である
(以上、茶ぶどうまとめ)
 
いわゆる宗教団体だけが宗教じゃない、というのは私も完全に同意する。
「中学受験していい学校に入る→いい大学に入る→将来の安定」みたいなのも一種の宗教。
「赤ん坊は液体ミルクではなく母親の母乳で育てるべき」みたいなのもそう。
「名字を同じにすることで家族に一体感が生まれる」とかもそう。
 
ちょっとずれた話になるが、現与党の国家観・家族観はたいへん宗教的だと思う。
どこから何を言われようが、言を左右にして「選択制夫婦別姓制度」をまともに論議しようとしない態度など見てそう感じる。なんだかんだ言って多様な価値観なんか認めたくないわけだ。選択させないというのはそういうことだ。そしてこの頑なさは、いつかきっと戦争につながる。

対談の面白さ:整理されすぎていない

以上のようなことを茶ぶどうは考えたが、この本は読む人ごとに反応する部分や興味深い部分が全く違ってくるタイプの本なので、ぜひみなさんそれぞれお読みいただきたい。対談形式なので話があっちゃこっちゃに飛び、結果として話題が多岐にわたっているから。
 
そう、対談本の面白さの一つに、「整理されていない」がある。
単独の筆者による新書との大きな違いはそこだろう。
通常、一人の筆者による新書ならば、結論をはっきり目立たせ、それをサポートする章・節を並べる。
しかし対談では、あるテーマについて二人が思うところや知見を述べる中で、互いの話に反応して「~といえば、……」と話があっちこっちに飛ぶ。
それがおもしろい。
 
佐藤氏は聖書の整合性のなさについてこんなことも言っている。

でも、整理されていないことが重要なんですよ。霊感によって書かれているものだから、整理してはいけない。重複がないように整理した文章を書くというのは、近代的な散文法が成立した後の発想ですからね。

(p. 128)

そうか。重複や矛盾、または逸脱のないように文章をまとめるのは、近代的な発想なわけだ。
この本が指摘しているのは近代の価値観の限界。それを超克するためにはポストモダン(近代以後)ではなくプレモダン(近代以前)に学ぶ必要があるという話が通奏低音になっている。なるほど「対談」は本書にふさわしい形式だったんだな、と納得がいく。
 
そしてもう一つ今回おもしろかったのが、二人の議論がかみ合っていない部分がある、ということだった。
 

対談の面白さ:かみ合わないこともある

佐藤①
「たとえば、世の中の主流に反してでも、このロシア・ウクライナ戦争は早く停止させるべきだと言わないといけない。あるいは旧統一教会の問題でも、人の内面や信仰体験を揶揄もしくは侮蔑するような形での世論形成は良くない、と言わなければいけない。先ほど申し上げたように、公権力が内心に踏み込むのは危ないということも言わないといけない。そういったことを自分に与えられた使命だと思う……」

本村凌二②
「宗教が個人の内心に踏み込むのは、本当に問題だと思いますよ。それこそ、信教の自由、思想信条の自由、内心の自由といったものは、近代社会における鉄則ですからね。」

pp.71~72

――おや??
①で佐藤氏が語っているのは「公権力」が内心に踏み込む危険性について。しかし②で本村氏は「宗教」が個人の内心に踏み込むのが問題だと言っていて、この部分はかみ合っていない。
 
一応、②の2文目は「公権力は内心の自由を侵害してはならない」という内容に見える。そうすると②冒頭の「宗教」は、「公権力」「政治」などの誤植?の可能性はある。
(そんな誤植があるか? 編集の作業を通して何かが落とされたり曲解されたりした可能性もある)
 
ただ、その直後の本村氏の発言はやはり、「宗教が人間の内心に踏み込む」という内容なのだ。

佐藤③
「信教の自由や思想信条の自由とは、内心について告白することを強要されないというのが原則ですからね。内心で何を考えているかについては、言わなくていい。その意味を理解していない人が多すぎます。」

本村④
「でも、それを歴史的に遡っていくと、キリスト教に行き着くんですよ。キリスト教以前の宗教は、人間の内心には踏み込みませんでした。……」

pp.72~73

 佐藤氏があくまで、「公権力による内心の検閲」的なものを問題にしているのに対し、本村氏は「宗教が人間の内心に踏み込みはじめたのはキリスト教が端緒」と言っているようだ。ここまでくると、二人の話している内容がまるで食い違っていることがわかる。
 
この後、佐藤氏がおそらく譲って、本村氏の話に沿って、いつから人の内心が問題とされるようになってきたか、という話題に移っている。
もし、「公権力が個人の内心に踏み込む危険性」についての話が続いていたら、どんな話が飛び出してきただろう、と思うとちょっと惜しい気もする。
でも人間同士のコミュニケーションって得てしてこういう誤解・すれ違いで進路がずれていくものだよな、とも思う。そしてそれは必ずしも悪ではない。ずれていった先でまた別の実が収穫できたりするのだ。
 
専門的な知識を持っている場合は特に、自分の見解を開陳したい、という思いが強くなるのは自然だろう。
しかしそうでなくても、私たちはそれぞれがたっぷりと「自分の話したいこと」を持っている。自分と相手との重なりの端っこを捕まえては自分の土俵に引っ張っていこうとするものなんだろう。
 
自分ばっかり引っ張らないで、相手に引っ張られることも楽しむことができたら……
それはきっと、本書で幾たびも言及された「メーデン・アガン」(中庸が大事・何ごとも徹底しすぎずほどほどに)の精神。

対談的な生活を送りたいものだ。

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