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自身がアダルトチルドレンだったと気づいた話その①

HSPであることをきっかけに自己理解が進むにつれ、自身がアダルトチルドレンだったことに気づいた話を書きます。今回はいつもより記事が長いです。
※長いので、6回シリーズで書く予定です。

最近は「毒親」という言葉が多く聞かれるようになった。それに伴い「アダルトチルドレン」という言葉も浸透してきているように感じる。

アダルトチルドレン、毒親と聞くと、虐待や自分の存在を否定する親、子供をかまわない親、過干渉、自分の考えは否定される等私には悪い親のイメージがしていた。

だが、私の場合は違った。母からの愛情はもらっていると感じている。後述するが、助けてもらった記憶もある。

客観的にも「親が共働き」、「親が病気で面倒を見ていた」、「親の機嫌を取る必要があった」、どれもハッキリ違うと言える。

母は私が小学校高学年になるまでいつも家にいてくれた。「母がいなくて頑張らなきゃ、でも本当は寂しい・・・」という感じとも違う。寂しい思いもしていない。

普通の家庭で育ったハズがいつも自信がない。母親からも、先生からも「もっと自信を持っていいのよ」と言われたが、出来なかった。

大人になって経験を積み、昔よりは自信が出てきた。だけど、根本的には何か自信ない、生きづらいなとずっと思っていた。

しかし、HSPを自覚して生きづらい理由が分かった。1つはHSPという自分の素の感覚を周りは持ってないので理解されなかった。

時代もあり、自分の感覚は当時、社会的に通じなかった。だから「このままでいいんだ」と思えなかった。外で安心出来る環境ではなかった。

私の子供の頃―1980後半~90年前半、個性はいじめの対象となった。さらに、教育の視点がみな同じを求める時代だったと思う。

みんなと同じことが出来ないと出来るまで先生にやらされる。例えば給食。分かる年代にはあるあるだが、給食は食べたくなくても、最後まで食べさせられる。

皆が掃除を始めても食べ終わらないとその環境で食べさせられた。今思うとありえない話で、ゾッとするが・・・私は食べるのが遅くてよくその状態になった。

出来ない、違うことは許されない感じだ。みんな同じじゃないと許されない感覚すらあった。だから、周りの子に合わせて必死に頑張った。

けど、上手くいかない。特に人間関係。グループでの会話に入れない私は孤立がちだった。仲間ハズレにはよくあった。何も意見しないから、友達にはよく裏切られた。

HSPの感覚は誰も分かってもらえない。母親にも、先生にも「そんな細かいことを気にするな」、「気にし過ぎ」とよく言われた。

HSPで、何事も深く処理するから反応が遅くてみんなの会話のスピードについていけなかった。その為話に置いてかれた。

動きも遅くて運動も苦手。周りより1歩遅い。それを説明する衝撃的な写真がある。小学校の運動会での綱引きの写真を見たら、私だけ完全に1歩遅い。

周りは一斉に端から中央の綱に向かって走っているから映っている人物の写真も1人1人小さい。私だけ踏み出したばかりで端にいて写真の人物が大きい(笑)

視覚的に誰が見ても1歩ズレてる。この写真で遅い、ノロいとからかわれた。真面目で大人しく内向的で、男子からはからかいの対象だった。そして、いじめにも遭ってきた。

親はいじめに遭っていた時、いつもと様子が違うとすぐ分かったらしく、どうしたの?と声をかけてくれた。私がいじめられて辛いと言ったら、助けてくれた。

先生にもかけあってくれた。そのことはよく覚えている。小4~中1まで断続的にいじめられていたので、母は小、中と先生にかけあってくれた。母には助けてもらい、とても感謝している。

だからこそ、何故私がアダルトチルドレンなのか余計に意味分からなかったのだ。

その2へ続く






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