大昔のお話しです。 ある村に、白龍の女の神さまがいました。その神様は、天界の命令で違う村から、この村へ移転したばかりでした。 今は春。花が咲き誇るきれいな季節でした。 その神様の名前は、汀(みぎわ)。もう、500年以上も生きている。 白い肌に、長い白髪。頭の後ろに髪を紅い紐で結んだ、美しい神様。 汀は毎日、村人が祠にお供えしてくれる供物を嬉しそうに食べては、村人を守るために、力を使っていました。 穏やかで小さな村。汀は、まだ来て日の浅いこの村がすぐに好きになりました。
2016年~ #わたしのマ
着られる衣があり、 喉が渇けば飲める水があり、 腹が空けば食べられるものがあり、 雨風しのげる家がある。 そして、働ける場所がある。 これだけそろって、何の不服があろうか。 そして、それに加えて、そばに居てくれる家族、友人、伴侶動物の存在がある者は、本当に幸福者であろう。 これを満たしているにもかかわらず、幸せを感じられない者は、意外と多い。 それは、そこに“感謝”がないからである。 学び求める求道心が途絶えると、“希望”という光を自身の胸中に失ってしまう。 今の現状が、“
ザァザァ…ザァザァ… 私の自宅の目の前には、澄んだ小川が流れている。二、三箇所の小さな滝があるため、水の落ちるザァザァという響く音が途切れることはない。 滝のないところは、サラサラ…サラサラ…と静かな水音を立てて流れていく。 春の小川は、優しい音色に溢れ、水温も冬の時より温度が上がり、手を入れると気持ちが良い。 川の音、流れというのは、人生の旋律によく似ている。 穏やかな姿もあれば、荒々しい姿を現すこともある。その日その日で、微妙な違いが川にも存在する。 荒々しく流れた後の
『子は親を選べない』よく聞く言葉だ。 果たして本当にそうなのだろうか。 数年前、子ども自身がお母さんを選んで生まれてきた、という内容をTVだったか、何かで耳にしたことがある。 私の夫の弟、義弟が幼い頃に義母に話したことが頭に浮かんだ。 「兄弟たちとお母さんのところに生まれる列に一緒に並んでいた」と。 それが本当のことだとしたら、やはり子どもは親を自ら選んで生まれてくるのだ。 数年前に読んだ記事ではこうあった。 《温泉のような穴がいくつもあり、そこの広場には子どもがたくさん
今年は去年に比べて、桜の咲く時期が早かった。車のハンドルを握り町に向かう中で、薄ピンク色の花が見事に咲き誇っているのを横目に、私は微笑んだ。 桜の時期は、長くない。 雨が降ってしまえば大半の花が地に落ちてしまう。 風が吹けば花片が舞い散る。 それでも桜という花は、本当に美しい。 もちろん、他の花々もそれぞれに美しさや可憐さがあるが、桜は不思議にも心惹かれるものだと思う。 歩道を30~40代程の男性がカメラと三脚を持って運んでいた。 (あぁ…桜を撮るのだろうか) 男性は心な
現代はまったく平和ではない。 無関心や、自分さえ良ければという エゴイズムから生まれた残酷さで 満ちみちている。 生きている心地さえない、 不安定な脈とともに、 動悸がとまらなくなる。 涙がとめどなく流れ落ち、 枯れはてたと思えば、また、 流れ落ちつづける。 いったいいつまで、こんな世に 生き続けなければならないのだろう。 張り裂けそうな臓物を抱え、 そんなことを考えなくてはならない。 変えなくてはならない。 思考を止めてはいけない。 歩み続けなければならない。 残酷な世を
行き過ぎた科学は、なにも幸せにしない。 人間は、時として愚かで残酷だ。 なにもかも、自分たちの手のひらの中にある気になって、その傲慢さに気づきもしない。 偽善を放ち、自分たちの感情を第一とする醜さは、やがて化けの皮が剥がれる時を迎えるだろう。 人間は、人間以上には決してなれない。 人間も、自然の一部という事実を忘れたのであろうか? 違う“種”と共に、共生することを忘れた結果が、今の歪んだ時代を生んだ。 自分の欲望のために、他のいのちを冒涜し、残虐をやめなければ、逃れられぬ災い
この道を、歩む辛さは蕀道。 全身が血みどろになり柄とも、 心は天の晴れ間なり。 暗澹たる世の中を、黎明の兆しに晒し、辿り着く先は、自身が求めた希望の地。
さぁ、立ち上がれ!苦痛と逆境こそが、 自身の血肉となる。 さぁ、行動だ!瞳は前を向き、 心は、最上の音律を奏でる。 さぁ、謳おう! 生き歳いけるものたち全てと、 平和のいのちの讃歌を!
生命は、休むことを知らず。とどまることを知らず。 それを知ったときの、驚き感嘆たる想いと同時に、鈍い重圧を感じた。 生命は、儚いものであり、瞬く間に次の生命へとの旅路に向かう。 それを目の当たりにする度に、鈍い重圧を感じるのだ。 しかし、その感情から這い上がろうとする、一条の陽(ひかり)がいつもある。 生命は、時として残酷であり、深い爪痕を残す。 だが、共に生きる他のものに、深遠な思いも与える。 それは、慈悲と云われるものなのだろう。 私は、ひとつの生命体として、最も良く生き