夢二郷土美術館を訪れて、父の作品を思い出す
「暑い」を5万回ほど言ったあと、泊まっているホテル近くの竹久夢二郷土美術館へ行ってきた。昔岡山に住んではいたが、訪れたことはなかった。
夢二は「日本のエーゲ海」と呼ばれる瀬戸内海に面した牛窓町の隣りの本庄村出身。「本庄」と言われてもまったくピンと来なかったが、牛窓ときけば「おーあそこかぁ」となり親近感がグッと湧いてくるから不思議。
夢二は絵の達人だけでなく詩人でもあったことが非常に興味深い。大正後期から昭和初期の作品を見ると、当時にしてはかなりモダンな作風のように見受けられる。広告代理店風にいえば、コピーも書いてアートディレクションもできる、みたいな。そんな人物だったのではなかろうか。
女性を描くとき、脚線を強調した(アルファベットのS字)しなやかな稜線が特徴で、それがとても艶かしい印象を与えている。
子供を3人もうけているが、2人目を産んだあと妻と離縁している。理由はわからない。
アメリカやヨーロッパへ渡航したことも知らなかった。いずれにせよ、キャッチーな絵と詩が、夢二に多くの仕事をもたらしたのには間違いなかろう。なんとなく「売れセン」的な作風が「昭和の流行作家」っぽくもある。
50歳に手が届く数日前、亡くなっているが、ここでも死因が書かれていない。病院で息を引き取ったということは何らかの病に冒されていたのだろう。
私の父も絵を描く人だったので、家の中に絵がゴロゴロ転がっていた。彼が亡くなったあと、知り合いの知り合いみたいなところから絵が出て来て、驚いたことがある。
夢二ほど著名ではないにせよ、作品を遺せるということはなんと価値のあることだろうか。その絵のいくつかは、ニュージャージーの私宅に飾ってある。