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仏教ってなに? 応用編ー9

唯識
 先に「空」のお話を致しましたが、釈尊が遺された教えをその後の弟子たちが整理分類して行く中で、森羅万象の基本的構成要素のいくつかは実在すると考えるようになりました。
 しかし、そのような実在論は釈尊の中道と無我の教えに反するとして、般若経典類を編纂した人達やその思想を集大成した龍樹らが、それらの実在論を徹底的に否定して行きました。
 そして、全ては「空」であるとしました。それは先の応用編6でご説明した通りです。
 ただ、全ては「空」であって本当は実在しないものであっても、釈尊が十二因縁で説かれた個体という妄想の発生とその再生のサイクルが現象していることは確かで、そのような妄想のサイクルは完全に中道を悟るまで続くことは先にご説明した通りです。
 先の「空」を説いた龍樹およびその弟子達はその後「中観派」という学問的な流派を形成し、基本的構成要素の実在論を唱える「説一切有部」の人達と議論を戦わして、彼らの実在論をことごとく否定して行った訳ですが、議論の流れで実在論の否定ばかりが強調された為に、本当は何もかも空っぽで、何も存在していないし、悟ったら全ての現象は無に帰するのではないかという虚無的な印象を持つ人もいました。
 実在論の否定を目的とした議論であったことと、ものごとの本当の在り方は言葉では表せないという事情もあって、あ~でも無い、こ~でも無い、あ~でも無い事は無いのでも無い等と無い無い尽くしの話ばかりになって、じゃあ一体どうなんだ!?みたいな欲求不満のような心象を持つ人も少なからずいたようです。
 それに応えるように登場した人たちが、唯識派と言われる人達です。そもそものこの唯識派の大本の大先生はあの有名な弥勒菩薩であるとされています。もちろん、歴史上に実在した弥勒菩薩が説かれたわけではなくて、兜率天と言う天上界におられる弥勒菩薩に、無着(アサンガ)という人が瞑想で会いに行って、そこで教えを乞い、説かれたことを後から記述したとされています。
 ということで、現代の学者の中では実質的に無着(アサンガ)が唯識派の創始者だろうという見解もありますが、実際に無着が弥勒菩薩から聞いたとされる教説の部分と無着自身の文章が明からに文体が違っており、別人ものとしか考えられないため、兜率天の弥勒菩薩とは別の、弥勒と言う唯識派の創始者が実在したのではないかと考える学者もいます。
 まあ、いずれにしても、唯識派と言うのは別名、瑜伽行派とも言われ、瞑想行に専念している人達であったとされています。彼らは、中観派のように無い話ばかりをするのではなくて、究極的には実在していないにしても、取り敢えず、我々が日常経験していることはどういう仕組み顕れてくるのかを積極的に説明しようとしました。
 唯識派によると私達一人一人は8種類の識から成っているとしています。先ずは眼・耳・鼻・舌・身の五感に対応する識として眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)の五つの識があり、これを総称して「前五識」と呼ばれます。
 先ずここで注意しなければならないのは、このサイトの最初の方でも、ご説明しましたように、これらの5つの感覚に関する識というものは外からの情報を認識するものではなくて、内側から来る情報を外に投影する器官であるということです。
 例えば、眼識は内側から来る様々な視覚情報を外に存在する事物や風景であるかのごとく投影し、その投影されたものをさらに認識する役割を果たします。耳識は内側から来る様々な音を外に存在する様々な音であるかのごとく投影し、その投影された音をさらに認識します。他の鼻識・舌識・身識もそれぞれ内側からくる匂い・味。触感などの情報を外に投影し、さらにそれらを認識します。そして、それらの5つの情報を総合的に知覚して言語によって認識するのが「意識」で第6意識と言われます。
 例えば椅子という視覚情報を眼識が外に存在するものとして投影し、さらにその形を認識しますが、その椅子の形として認識された視覚情報を「これは椅子である」と言語・名称を伴って認識するのが「意識」の役割です。
 そして、先程から内側から来る情報と言っていますが、内側のどこから来るかというと、先の前5識と第6意識のずっと奥に深層意識ともいえる阿頼耶識と言われるものがあるとされており、そこからあらゆる情報が上層意識に上ってくるとされています。
 ālaya とはサンスクリットで住居とか蔵という意味で、あのヒマラヤもHima雪ālaya蔵という意味から来ています。この阿頼耶識というのはパソコンで言えばハードディスクのようなものであらゆるデータが貯蔵されています。ただ、ハードディスクのような受動的なデータバンクではなく、阿頼耶識に貯蔵されているあらゆる情報は噴水のごとく噴出して、それによって上記の6つの識が生じ、更にその阿頼耶識そのものを自分だと思い込んでしまう上記の6つの識の根底に生じる自意識とも言える末那識という第7番目の意識も生じます。
 この末那識の末那とはサンスクリットのmanasということばから来ていますが、元々の意味は人間の精神作用全般を表す言葉ですが、ここでの意味は「意志」と訳すのが一番分かり易いと思います。
 この末那識は阿頼耶識の事を自分であると思い込み、その自分と言う妄想に基づいて、何とかその自分を存続させるように働きます。あらゆる、利己的な思いや行動の源泉になっているともいえます。
 そう言う意味では、釈尊の説かれた中道と無我の教えを自覚して、利他の菩薩行を続けることは、この末那識の利己的な影響力に打ち勝っていく道でもあるとも言えます。
 ということで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前5識と意識の第六意識、第7番目の識としてのこの末那識、そしてそれらすべての七つの識の根底にある阿頼耶識の計八つの識から人間の個体は生じているとされています。
 では、その仕組みについてもう少し詳しく見ていきたいと思います。
 阿頼耶識には過去から自分が行ってきたあらゆることが記憶されています。利己的な思いや行動や利他的な思いや行動も中間的な思いや行動も全ての思いや行動が記憶されています。
 新しく生まれ変わって、新たな人生が始まる時は、阿頼耶識に記憶されていた過去からの蓄積データを基に、自分が新たに生きることになる「環境設定」がなされていきます。
 ここで大変重要な事は、いわゆる仏教で一般的に言われている「業」「カルマ」というものは、これらの阿頼耶識に蓄積された自分の過去からの思いや行動の記憶の事ですが、それらは、新たな人生においての「環境設定」しかしないと言う事です。
 つまり、さんざん悪事を働いた人は最悪の「環境設定」の中に生まれる訳ですが、新たに生まれた当人そのものは100%フリーな状態であり、過去世に悪人だったから、次の人生でも悪人として生まれる訳ではないということです。ただ、自分の行った数々の利己的な行為の反動が環境設定の中に現れてきますので、様々な人から利己的な行為をされ、いじめられ、つまり、自分が過去に他者に行ったことと同様の事を今度は自分がされる訳ですが、そのような環境の中でも自分の過去の行いを想像して反省し、謝罪の気持ちを忘れず、決して仕返しなどをせずに、謝罪の気持ちと行いを保ち続ければ(これを仏教では懺悔(さんげ)の行と言います)、今世での思いと行動の阿頼耶識への記録はプラスのものの方が多くなり、従って、次の人生の環境設定は、親切で利他的な人達に囲まれた、とてもプラスな内容になる訳です。
 つまり、阿頼耶識に蓄積された過去からの思いや行動の記憶をもとに、新たな人生の環境設定がなされ、そのような環境設定の中での自分のあらたな思いや行動が毎瞬毎瞬あらたに阿頼耶識の中に記録され、それがまた次の人生の環境設定をするということになる訳です。
 したがって、いくら自分が生まれた環境が恵まれているからと言っても、そのことに感謝もせずに当然のことのように思い、我がまま放題な利己的な行いを重ねると、次の人生は大変に苦労の多いものになるという事です。
 逆に、いくら最悪な環境に生まれても、いつも感謝と謝罪の気持ちを忘れずに利他の行動を重ねれば、必ず状況はよくなっていくと言うことです。
 このように、自分が今置かれている状況なり環境は、全て自分自身の過去からの行いが設定したものなので、誰のせいでもないし、誰を責めることもできない、完全なる自己責任の世界なのです。
 ただ、全てが完全なる自己責任であるとしても、それは自分が自覚すべきことであって、他者にもそれを押し付けて突き放す理由になってはならないと思います。悲惨な状況に置かれている人も、たとえその原因がご本人の過去の行いにあるとしても、その状況から抜け出すのに手助けを必要としている人には進んで手助けすべきだし、お互いそうやって助け合ってこそ、互いにより良い生き方が出来るようになるのだと思います。
 人間は、始めから強い人は居ませんので、互いに助け合ってこそ、それぞれの問題も克服できるようになるのだとおもいますし、そこにこそ、利他行の原点があるのだと思います。
 そう言う意味でも、近頃、盛んに耳にする「自己責任」という言葉は、困っている人達を助けないことの正当化に使われているようですが、こういう使い方こそ、薄情で利己的な人間達の本音であって、そのような連中はその言動によって必ず次の世で、誰にも助けてもらえない惨めな状況に陥ることは目に見えています。
 ということで、とかく、仏教の宿業論と言うのは、運命論のように誤解されがちですが、決して運命論ではない事がお分かり頂けたと思います。大まかな環境設定はされてはいますが、その中での自分の行動の自由は100%保証されているという意味では、全くの自由であるという事です。

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