仏教ってなに? 応用編ー4−1 (如来ってなに?)
自分の無力さを徹底的に自覚する事によって、自分を脱却する道
先に見てきたような阿羅漢の道も菩薩の道も相当の覚悟と信念を必要とする道であり、誰にでも出来るとは言いがたい面があります。
そこで、後の時代になると、これは仏教だけの話ではなく、世界的な広がりを見せた宗教的な潮流なのですが、人々を救済しようという大いなる意志を持った超越的な存在に、自分の全てをお任せして救って頂こうという信仰形態が興隆します。
この信仰形態には幾分の幅があり、画一的に述べることは出来ませんが、一番究極的な姿勢は、自分の無力さというものを徹底的に自覚して、自分で自分の事をどうにかできるなどという慢心を一切捨てて、ただひたすらに、超越者の救いの意志に自らを全面的にお任せすることにより、自分の中に超越者の意志が働くようになり、気がついたら、これまであれほどしがみついていた「自分」という妄想を忘れてしまうような心境になるという道です。
このような宗教的潮流というのは、紀元前後に登場したもので、この潮流が中東で花開いたのがキリスト教であり、インドではバクティヨガの源流となり、仏教にも影響を与えて浄土経典類が編纂されたとものと思われます。
仏教における浄土経典類は、年代的にも紀元前後に編纂されたものと考えられていますが、それらの経典類の大前提となるのは後に阿弥陀仏となる法蔵菩薩の誓願です。
法蔵菩薩は48もの誓願を立てられたのですが、特にその中の18番目の誓願が伝統的に特に重視されてきました。
まあ、思いきり要約すると「自分が仏になるときに、この宇宙に居るどんなものでも、私の誓願を信じて、私の居る世界に生まれ変わろうと願って、私の仏としての名前である「阿弥陀仏」を唱え続けても、私の世界に生まれることが出来ないならば、この私も仏としての最終的な段階に入ることはない」ということです。
仏と阿羅漢の違い?
まあ、要するにこの世の全てのものが成仏しない限り自分も成仏しないということですが、これは、正に菩薩としての究極的な心境であって、こういう意味から考えても、先の章で触れた、阿羅漢と仏の違いはこの辺のところにあるのかもしれません。つまり、仏というのは最後の最後まで完全なる涅槃には入らないのでないかということです。
仏と如来
先の菩薩のところでもご説明致しましたが、自分も他者も同じ妄想であり、同じように迷いと苦しみの中にあるのならば、自分だけを優先する理由はどこにもなく、自分も他者も皆が同様に妄想から脱することが出来るように努力するのが当然ともいえるわけです。
つまり、自分を優先しようという発想こそが、自分という観念に囚われている証拠であり、本当の菩薩とは、上記の法蔵菩薩のように全てのものが成仏しない限り自分も成仏しないと誓うのが菩薩としての本来的な姿勢であるといえるわけです。
そして、このような菩薩としての生き方を最後の最後まで続けて、最終的には阿羅漢のように自分や他者という妄想を根こそぎにすることなく、そのまま自分という視点も他者という視点にも、どちらにも留まることなく、完全なる中道の境地に達することが仏という境地であり、如来と言われる境地なのかもしれません。
如来というのは「真実の世界に到達し、そこから再び来る者」つまり、真実の世界に到達したが、そのままこの世から消え去ることなく、あらゆるものの悟りを手助けすべくこの世に教えを発信し続けている仏、というような意味です。