皆違って皆いい。という言葉を、もっと具体的に言うのならば、生きる理由も、熱量も、生き方も、違っていいし、それを他者がコントロールすることは出来ないということだ。個性と欠点を受け入れるという視点だけだと「正しい生き方」を他者に強制してしまう場合がある。法則を伝えれば良いのだ。
出来ている事に目を向けて生きるか、出来ていない事に目を向けて生きるか。それだけの差でしかない。どちらが正しいという事ではなくて、出来ていない事に目を向ける傾向の方が人間は強い。それを理解しているかどうかなのだ。苦しい時は、出来ていない事にフォーカスしているのは言うまでもない。
相手の領域に踏み入れるより、自分の領域に誰かを招き入れる方が、よっぽど勇気がいる。相手との距離を縮めたいのならば、勇気のいる方を選ぶのだ。国と国の間でも、個人と個人でも同様だ。自分を大きく見せる必要はない、等身大の自分で接すれば、相手は心を開いてくれる。逆をすれば逆の結果がでる。
これが売れる、あれが売れるという発想でビジネスを展開しても苦しくなるだけだ。背伸びをしたり、自分を良く見せようとしても、いずれウソはバレる。等身大の自分の、どの部分を見せて強調できるかなのだ。わざわざ、見せる必要のないものは見せなくていい。長く続けたいなら、尚更だ。
誰かと人と心の距離感があるとするならば、お互いに半分ずつ歩み寄ることだ。関係が上手くいってない時は、相手に責任を取らそうと100%歩み寄らせようとしている時か、自分に責任があると100%歩み寄ろうとしている時だ。50%は自分に責任があり、50%は相手に責任があると考えてみるのだ。
人間だから悩みは尽きることはない。しかし、悩みをシンプルにしていくことは出来る。シンプルな悩みを持つか、複雑な悩みを持つか。シンプルに捉えることが出来れば、解決する方法もシンプルになる。複雑に捉えるから、途方に暮れてしまう。シンプルな悩みをシンプルに解決していくのだ。
自分の良い部分を見つけ、認められる人は、他人の良い部分を見つけ、認めることが出来る。逆に自分の悪いところにしかフォーカス出来ない人がは、他人の悪いところにフォーカスするだろう。多く視点と広い視野を持てず自信がないのならば、自分に問いかければ良い。そして、他人にも問いかけるのだ。
自分のエネルギーの総量が、すぐに上昇しないとすれば、エネルギーを、どの方向に向けるかしかないのだ。サボるという発想は、今まで向けていたエネルギーを違う方向に向ける為のプロセスと考えればいい。今の状況が、自分を含め、幸せではないと感じるならば、尚更、エネルギーの方向を見直す時だ。
ナチュラルに生きること、自然な環境の区別するのは難しい。例えば、田舎暮らしが過酷であるのと同じだ。ナチュラルに生きることは、冬の寒さを受け入れて、春の心地よさを感じ、夏の暑さに汗を流し、秋の実りに感謝をすることだ。ありのままに生きるというのは、自然法則を受け入れることなのだ。
アイデアが豊富な人は、再現力がある人をビジネスパートナーにすれば良い。再現力がある人はアイデアが豊富な人をビジネスパートナーにすれば良い。誰かの言いなりになる必要も、従う必要もないのだ。自分がどっちのタイプかを理解していれば、誰にどういう問いかけをすれば良いのかも分かる。
心をオープンにするのは、簡単そうに見えて難しい。そもそも、心をオープンにするという発想を、人は忘れてしまう。努力をし、向上する。これも大切なことだけど、武装する為の努力は心をクローズにさせてしまう。何の為に努力をし、向上するのか?ありのままの自分を受け入れ、この瞬間を生きる。
愛を差し出せる人は、愛を受け取れる人。愛を受け取れる人は、愛を差し出せる人。愛とは循環なのだ。太陽を浴びて、雨で潤い、花を咲かせ、実を付ける。その実が、また愛を循環させる。与えられてばかりでは、根は腐る。差し出してばかりでは、実はつかない。自然体で生きるとは、循環していることだ。
全ての人類が家族だと聞いて、それを奇麗事だと思う人は、家族との距離感が掴めていない人だ。家族内でも、距離がある人と距離がない人がいて当たり前なのだ。家族だから、こうあるべき。という呪縛から解放されたら、家族の枠は無限に拡がる。結婚は他人同士がするもの。そこから家族は生まれる。
情報の発信には2種類ある。罪悪感を与える発信と罪悪感を与えない発信だ。正しい情報と間違っている情報があるのではない。自分の感情を刺激する情報と、刺激しない情報があるのだ。自分の人生の責任を自分自身で取る人は、他人の人生の責任に介入したりはしない。皆精一杯生きている。それでいい。
理想的な政治は、国民一人一人のニーズに合う政策を、車の保険のプランのように提示することだ。国民一人一人が考える幸せが違うからだ。多様なニーズに対して、様々なプラン出せれば良い。大切なのは日常の暮らしだ。個々の暮らしが安定していれば、戦争は起きない。そもそも国民の総意は存在しない。
テレビに出ている弱者の状況や発言を、全ての弱者の総意だと考えてしまう場合がある。それは、テレビに出ている弱者が、まるで弱者の総意を代弁しているように語るからだ。確かに当てはまる人もいるだろうが、自分なりに考え、工夫をし、誰かの力を借りながら、不満も言わずに幸せな弱者が多数いる。