人の意志の永遠性 【進撃の巨人10周年】

今日も進撃の巨人10周年企画で書きます。

【key word】
命、犠牲、人の意志

進撃の巨人では、多くの兵士が命を落としていきます。
戦争の中で痛感される命の脆さと儚さ、「無駄死に」とも思える残酷な現実を描いてきたのもこの作品です。
仲間の死を経験してきた作中のキャラクターたちですが、

特に調査兵団団長エルヴィン・スミスとリヴァイ兵士長は、
数えきれないほどの仲間の犠牲の上に立っている二人と言えます。

そんな彼らには、彼らなりの死生観があることが作中で垣間見えます。
打ちひしがれた兵士を鼓舞するために、ときに彼らは<“人の意志”の永遠性>を説くのです。

あの勇敢な死者を 哀れな死者を
想うことができるのは
生者である我々だ!!

我々はここで死に
次の生者に意味を託す!!
 ー エルヴィン・スミス

コミック第20巻  第80話『名もなき兵士』
お前の残した意志が 俺に"力"を与える
ー リヴァイ

コミック第3巻  特別編『リヴァイ兵士長』

人は死んでも、その意志は他者の中に残り続ける。

そう告げることで死に逝く者を鼓舞し、励まし、救おうとする一方で、
仲間を弔う時間も無い自分にもそう言い聞かせ、

エルヴィンとリヴァイはこれまで進んできたのだと思います。
無意味とも思える犠牲に、何かしらの意味を見い出し続ける必要性がこの闘いの中にはあったのでしょう。

他の作品にも、同じようなテーマを思わせるセリフがありますね。

人はいつ死ぬと思う...?
人に 忘れられた時さ...
!!!

ーDr.ヒルルク (『ONE PIECE』)

『ONE PIECE』のこの有名なワンシーンを思い出したと同時に、
私は漫才師の生き様を描いた小説、『火花』のワンシーンも思い出しました。
引用させていただきます。

漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。
でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。
もし、世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。
周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやってないこととか、
そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?
ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。

(引用:又吉直樹『火花』文藝春秋.p.133-134)


noteという世界に置き換えて考えてみても、
他のクリエイターさんがたくさんいて、
すごい記事がたくさんあったからこそ、
自分も書けるということはあります。
私自身、noteに来る前は殆どアクセスの無いブログでひっそりと書いていましたが、
noteに来てから色んな刺激を受けて、書き手の私に変化がありました。

でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。
この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。

でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。
やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、
例えば優勝したコンビ以外はやらんほうがよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。
一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。
だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。
ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。


(引用:又吉直樹『火花』文藝春秋.p.133-134)

「人は人に忘れられたときに死ぬ」
「全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。」


何をモチベーションにしてnoteを書き続けるのか。
noteにはサポートという機能があったり、お金が循環する仕組み自体はあります。
でもまだあくまで仕組みであり、
実際に気軽に投げ銭し合う文化にまでは到底なっていないでしょう。
最近始めた方には残酷かもしれませんが、
YouTuberのような一攫千金や、
サポートで財布が潤うというようなことは、
相当の能力や運がなければ、
今の所はすぐには難しいと思われます。

私も、有り難いことに全体ビューは20000、フォロワーも200を越えましたが、
正直お金にはこれっぽっちもなっていません。

それでも書きます。

「スキの数」とか「フォロワー数」とか、
「サポートを受けた金額」とか、
数字で見ようとすると、
“この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある”んですね。
でも、金にならなくても、淘汰されたとしても、
書くことあるいは表現すること自体に価値を感じられるなら、
続けられるのではないでしょうか。

たとえ続けられなくても、
一度でも言葉や作品を残すということの影響力は、
自分には測り知れないものがあります。
と、私は思います。

文章を書く人間が、この世に自分一人だったら、
絶対にこれまでの文章は書けていないから。




エルヴィンやリヴァイも、
心臓を捧げていった仲間たちは自分の一部となるということを真に感じ、
嘘偽りなく彼らに伝えてあげていたのかもしれません。

いずれは自らも死ぬという不変の事実、
それが明日かもしれないことを予感させられ続ける毎日の中で、
あるいは自分がそう思いたかったのでしょうか。

無意識的にも、私たちはもう何年も会っていない人がふいに夢に現れたりします。
一見忘れ去られた過去の出会いや出来事も、
自分の中で何かの象徴として生き続けているのかもしれませんね。


今日も私を私でいさせてくれる人は、誰だろうか。

...まぁでも、いつかボーナスは欲しくて、
やってるとこもあるよね俺は。

『進撃の巨人』Season3 Part.2 エンディング曲
Name of Love / cinema staff

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