08 本物と偽物
たとえば贋作とは、上手すぎてバレるのでは、と思う。
本物のピカソの絵は、きっと所々下手で、それが本能的にリアルに感受されるということなのだろう。
リアルとは、上手さと下手さの、ちょうど良いバランスのことなのでは、と思う。
それが光と影のように、画面に現実感、つまり感覚の立体感をもたらすのだ。
本物とは、画面の画素の濃淡がリズムとなり、絶妙なハーモニーを醸し出しているのだ。
そのことを、質の良さ、クオリティーの高さと言うのだろう。
「何とも言えない感じ」とは、この点在する「抜け」によって生み出されるのではないだろうか。
抜けとは、言わぬが花的、ジグソーパズルの最後の1ピースなのでは、と思う。
芸術とは、完成寸前の予感最大値のことなのであり、この抜けがないと、興醒めなのだ。
最後の1ピースまで嵌めて「完成」させてしまっているものは、いわゆる独り善がり、誰の興味も引かない。
きっと本物とは、この最後の1ピースの不在を鑑賞させることに成功しているものなのだろう。
抜けがないものは、偽物、フェイクなのだ。
抜けがありすぎるものは、作者の志が偽物、フェイク。
天才と秀才の違いも、同様なのでは、と思う。
藤井聡太は、先人の名棋譜に1つ分面積を増やしたジグソーパズルの最後の1ピースを打とうとしている。
藤井聡太以外は、先人の名棋譜でジグソーパズルを完成させることが得意。
カニカマは、例外的贋作だ。
先人である蟹を完コピしたジグソーパズルでまったく抜けがないのに、偽物やフェイク感がみじんもなく、蟹肉に混じっていても誰も気づかないどころか、むしろ選ばれてしまう。
人はカニカマに理想の蟹肉を見ているため、不自然に画素が整っていてもバレないのだ。
カニカマは、蟹に似せようとして、別ルートで蟹を超えてしまったシン・天才だ。
カニカマは、もはや蟹を目指してはいない。
カニカマは、カニカマにしか宿らない、カニカマらしさを追求している。
カニカマは、とことん蟹を追求する途中で、オリジナルの死にたての蟹を生んでしまった。
カニカマと蟹の「遺伝子」は違う。
カニカマのほうが、進化形だ。
それはあたかも、物真似芸人が本人より売れてしまう現象のようだ。
広瀬香美や宇多田ヒカルの二代目のようになっている、ミラクルひかるのようだ。
しかし、カニカマも物真似芸人も、蟹と本人をリスペクトしている。
そのリスペクトが少しでも失われたとき、カニカマも物真似芸人も、まるで魔法が解けたように、色褪せたただの偽物に落ちてしまうのだろう。
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