第18回 わたしは見ていた
のろくさとプールからあがり、ここも剃っておかないとだめだったか、と思いながら水の滴る自分の腹から視線を上げると、輪ゴムちゃんが先生に駆け寄ってなにかをお願いしていた。輪ゴムちゃんは背の低いスレンダーな女の子で、医学部の推薦をもらうために評定平均5.0をキープしており、ニュージーランドから来た金髪で長身のALT、ステファニーと仲が良かった。近所の国立大学の聴講生でもあったので、高校と大学両方の教科書と参考書を持ち運ばねばならず、毎朝大きな音を立ててスーツケースで登校していた。先生が、更衣室に向かおうとする女子たちを制して全員をその場に待機させた。プールは静まり返り、水面は揺れていた。ひとり輪ゴムちゃんは飛び込み、波のような水しぶきをあげてバタフライで泳いだ。あっという間に向こう岸に着くと、輪ゴムちゃんは手すりをつかんで軽々とプールから出て、水を通さないゴムタイプの水泳帽と競泳用眼鏡を外した。乾いたままのワンレンにした腰まである黒髪をあらわにして、頭を傾けて左右の耳から順に水を抜きながら、
「タイムどうでした?」
と輪ゴムちゃんは尋ねた。先生がストップウォッチの数値を教えると、
「あー。やっぱり遅くなってる」
と悔しそうに照れ笑いをした。待たされていた我々には目もくれず、タオルを手に取って更衣室に向かう輪ゴムちゃんの足の親指に、ユニオンジャック柄のペディキュアが隙間なく丁寧に塗られていた。
京都の聖護院御殿荘の階段ちかくのスペースで、ムー太郎くんが「電球」とあだ名されていたバスケ部の顧問に大声で怒鳴りつけられていた。ムー太郎くんは女の子みたいにかわいい顔をしていて、「修二と彰」のようにワックスで長めの頭髪に動きをつけており、前髪をクリップで止めていた。痩せていたがバスケ部だったから、折り返されて七分丈になった制服のスラックスからのぞくふくらはぎだけが、ぼっこり膨らんでいた。階段からちょっと歩いたところで、ペニちゃんも別の女の先生に怒られて目を真っ赤にして泣いていた。ペニちゃんはムー太郎くんと付き合っていて、バトミントン部で脚が長く骨格がしっかりしていた。縮毛矯正をかけた髪をボブにしており、顔のつくりが派手でかわいく、「かわいい子としか友達にならない」と公言していた。たしかにペニちゃんのまわりにはクラスの垣根を越えて顔の造作の整った子しかおらず、つまりわたしはペニちゃんの友達ではなかった。一方、ムー太郎くんは一年のときに同じクラスでとなりの席になったことがあり、気さくなひとで雑談もした。
「中学までは勉強ができると浮くし、ガリ勉みたいでダサいやつになるからすごく嫌だった。でも、この学校に来るくらいなら勉強ができたほうがかっこいい。この学校だとできないほうになってしまっていてダサい。自分がずっとダサいことが悔しい」
そんな愚痴を、ムー太郎くんは中間テストのあとにこぼしていたことがあった。
大部屋で、あの二人はどうしてあんなに怒られているのか? と尋ねると、やっていたのがバレたらしい、という返答が口々に返ってきた。修学旅行中に。しかし、どこで? それは見ていないからわからない。結局、どのようにしてバレたのかわたしは知らない。ムー太郎くんとペニちゃんはわたしがお風呂にはいるときもあがってからも、何時間も怒られ続けていた。修学旅行が終わるとムー太郎くんは責任をとって頭を丸坊主にし、特攻隊みたいになっていた。
物理化学部なのに文系クラスにいた肉ヅカくんは、小柄で色白の男の子で、目と眉が近くて鼻が高かった。体育では、どんなに暑い日でもジャージの上着をはおっていて、ミステリアスな雰囲気があった。無口で、肉ヅカくんから誰かに話しかけているところを見た覚えはない。昼休みになると肉ヅカくんはよく、卓球部のサイタマくんと、え? そんなの教室にあった? と訝しんでしまうくらい垢染みたポータブルタイプの将棋盤で対局していた。サイタマくんは負けるたびに、
「ニッキーは将棋が強いからなー」
と、なぜかうれしそうにしていた。肉ヅカくんは最低限の言葉しか発しなかったが孤立していたわけではなく、学校行事もサボることなく参加していたし、誰かが冗談を言えば無音で笑っていることもあった。
ある朝のホームルームで、六十近い男の国語教諭の担任が、はればれとした顔で言った。
「昨日肉ヅカがな、日直日誌に『子猫を保護しました。もらってくれるひとを探しています』と書いていた。肉ヅカが見つけて、家に置いているんだな。優しいやつだ。誰か、もらってやるやつはいないか? こういうときこそクラスのみんなで助け合って……」
意外性のある話に、教室はざわついた。担任は、「いやあ、肉ヅカがな」と浸っている。わたしのとなりの席だった肉ヅカくんは顔を真っ赤にして、腹をくくって、
「見つかりました! 見つかりました!」
と、ハスキーな声のボリュームを精いっぱい上げて伝えようとした。しかし、あいにく教室は自身の善行によって騒がしくなっていたために、肉ヅカくんの声は周囲の数人にしか聞こえていない。担任は恍惚として、「肉ヅカがな、子猫をな」と、ずっとその話をし続けている。肉ヅカくんは困り果てて、表情を「(>_<)」という顔文字みたいにしながら、「見つかりました!」とほとんど叫ぶようにして言っているのに、担任の耳にはまったく届いていなかった。見かねて、
「先生。肉ヅカくんが、子猫のもらい手はもう見つかったって、言っています」
とわたしまで声を張り上げて言い添えた。担任はいつまでもうっとりとしていた。
「カトちゃ〜〜〜ん」
とカトウくんのことを呼ぶのはムサシノくんだけだった。カトウくんは、どうしてムサシノくんだけが自分をそう呼ぶのかわからないと言っていた。ムサシノくんは剣道部にはいっていたから身体つきががっしりとしていて、癖毛で目が悪く、眼鏡のなかに外の景色が見えていた。友人はムサシノくんと調理実習の班が同じだったが、「茶碗を左手で持たずに犬食いをするから」というだけの理由でムサシノくんのことを毛嫌いしていた。ムサシノくんはおそらく、そのほうが男らしくてかっこいいし、照れるから、というだけの理由で女子にぶっきらぼうに接していて、そのせいで女子全員から嫌われていた。しかし、学校祭当日だというのに大雨が降って地面がぬかるんでいたとき、つなぎが泥だらけになるのも厭わずに、学校祭で使う山車のようなものの下に潜り込んで電飾を直し、案の定全身がずぶ濡れの泥まみれになっていた姿を見て以来、わたしはムサシノくんのことを漢気のある人物だと見直していた。
「ぶっきらぼうだけど、悪いひとではないよ。数珠つけてるけどね」
ムサシノくんは右の手首に、木でできた数珠をはめていたのだ。だから陰で「数珠」と呼んだりもしていた。褒めたり馬鹿にしたりしながらムサシノくんの名誉回復および復権を勝手にはかるのが、ちょっとしたマイブームになった。
その日のベクトルの授業は特に眠かった。午前中にバレーボールの授業があったからだ。うつらうつらとしながら終業を心待ちにしていると、ムサシノくんが開いた手をそっと、机と机の間の通路側に掲げた。数珠をつけているほうの右手である。わたしはムサシノくんの手を見つめていた。ムサシノくんは五、四、と静かに指を折っていく。三、二、一。カウントダウンを終えたムサシノくんがパチンと指を鳴らす素振りをしたちょうどその瞬間、授業の終わりを告げるチャイムの音が、学校中に響き渡った。
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