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01 針山と剣山

[編集部からの連載ご案内]
選挙が終われば勝ったと言い合い(白と黒)、生活でのバランスに四苦八苦し(家族と仕事)、円安と物価高が格差を広げる(貧と富)……。そんな対立と選択にまみれた世にあって、「何か“と”何か」を並べてみることで開けてくる別の境地がある……かもしれない。『神様の住所』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した九螺ささらさんによる、新たな散文の世界です。(月2回更新予定)


針山と剣山は、字の外観が双子くらい似ているのに、使用前の姿は真逆だ。
 
針山は使用されるまでは針など一本も刺さっていなくて、なんなら針なんて一生刺してくれなくていいのよ的ムードで軽くてほんわかしているのに、剣山は使用前から重苦しく厳めしく、フック船長を喰らうワニの健康すぎる歯並び的針を地獄山のようにざくざく突き出し、茎に拷問を与えるべく待ち構えている。
 
針山は名前の鋭さとは逆で、外側はフェルトや布で、中身は綿(昔、わたしの母は針先に油がついて通りが良くなるからと中に自分の髪の毛を入れていた)。
剣山は、名前そのものの金属で、人を寄せつけない修行僧のごときオーラを漂わせている。
 
針山がふかふかの布団なら、剣山はガチガチの岩。
針山がピクニックなら、剣山は滝行。
針山がチューリップなら、剣山はサボテンかハエトリグサ。
 
未使用の針山を見るとミニチュア狸たちの丘のようで、うっかりほっこりという言葉を漏らしてしまいそうなほど、ポエムな安心感で充ちる。
この安心感の体内に人はなぜ、針などという凶器をあんなにたくさん刺したりして虐げるのだ、などという気分になってくる。
 
一方、未使用の剣山を見るたびに、痛いと思う。
思った時点で脳の痛感覚エリアの神経に何らかの物質が伝達されるはずだから、何も伝達されないときより絶対的に痛いはずだ。
 
針山は、ふっくらしているほどいい針山だ。
剣山は、鋭いほどいい剣山だ。
針山と剣山は、「痛み」というジャンルのアートの極南と極北の表現なのかもしれない。
 
受け身的で献身的で待つタイプの針山に、攻撃的そうに見えて実は同様に受け身的で献身的で待つしかない剣山を刺したらどうなるだろう。
 
二人はきっと、一対の雌雄ネジよりも奥までぴったり挿入密着して愛し合い、そのまま一生離れられず、もう誰からも使われないけれどそれで至極満足幸福な、心身ともに相補ってゼロより見えない境地に達する心中を成し遂げ、この世からふっと消えてしまうのだろう。


九螺ささら(くら・ささら)
神奈川県生まれ。独学で作り始めた短歌を新聞歌壇へ投稿し、2018年、短歌と散文で構成された初の著書『神様の住所』(朝日出版社)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。著作は他に『きえもの』(新潮社)、歌集に『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房)絵本に『ひみつのえんそく きんいろのさばく』『ひゃくえんだまどこへゆく?』(どちらも福音館書店「こどものとも」)。九螺ささらのブログはこちら

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