第4回 母の影響
今年の夏は3年ぶりに故郷の鳥取県に帰省してきました。毎年お盆の時期に帰っていたのですが、コロナで控えていたので期間が空いてしまったのです。3年の歳月が空いていたのでコロっと忘れていたのですが、そういえば実家に戻るたびに僕は両親と、というか母とケンカになります。そして今年もやらかしてしまいました。
母はわりと過干渉なところがありまして、51歳の僕が帰省しても、野菜を食えだの、睡眠をとれだの、怠惰が顔に出ているだの、くだらない本ばかり読んでないで、たまにはトルストイだかプロイスラ―だか忘れましたが読めだのとうるさく言ってきます。親にとって子はいつまでたっても子ですから、まあ仕方がないのかなと思いながらも、うるさくてたまらない僕はついつい邪険な態度をとってしまったり、トルストイなんか読み飽きたよなどとほざいて(一冊も読んだことはない)衝突が始まる感じです。まあ2日も平穏な空気が流れていたら奇跡というのが僕の帰省時の家の状況です。東京に戻る日には「あんたといるとクタクタになる。来年から日帰りにして」などと最後まで口の立つ母ですが、実は僕の創作というとなんだかたいそうなもののような気がしますが、脚本を書くうえでもっとも影響を受けている存在かもしれません。
今でこそ僕は文字を書くことを主たる生業としていますが、小中高校生時代は文字や文章を書くことが大嫌いで大の苦手でした。作文のたぐいはほとんど提出した記憶がないのですが、僕の通っていた小学校には「連絡帳」というものがあり、そこには毎日の時間割りと、日記のようなものを書く欄がありました。それを毎日先生に提出し、先生は日記を読んで返事をくれるのですが、母は先生からの返事をとても楽しみにしていて、僕が学校から帰るなりまずは連絡帳を読んでいました。なぜかというと、その日記は母が書いていたからです。いえ、正確には母の言うことを僕が書いていました。口述筆記です。
普通そこには、「今日は昼休憩に○○君と野球をして遊んだ」とか「体育の授業の水泳が気持ち良かった」とか主には学校生活のことをみんな書いていたような記憶がありますが、僕の連絡帳にはわりと赤裸々に家庭生活のことが書いてありました。「今日はお母さんにこっぴどく叱られて、家から追い出されました。お母さんは怒るとすぐに僕を家から追い出して、あんたは河童の子だから川に帰れと言います。なので僕は天神川に行って河童のお母さんを、いないのをわかっているのに探しました」とか「お母さんとお父さんがものすごいケンカをしました。お母さんはいつも、お父さんをわざと傷つけるようなことを言います。僕と妹が聞いていると、こうして人は人を傷つけるのよと言います」といった内容のものを、母は嬉々として僕に書かせました。
最初はそんな家庭の恥を書くことが恥ずかしかったですし、なんでそんなことを書かなきゃならないんだと思っていましたが、母は「だって恥ずかしいことしてるんだからしょうがないじゃない」などと開き直ったようなことを言っていました。よくわかりませんでしたが、なにより自分で内容を考えて書くのが面倒ということもあり、母の言いなりになって書いていました。そして母の言うように書くと、先生からの返事が明らかに長いのです。先生も楽しんでいるのが小学生の僕にもわかりました。母もその返事を読んでは「今回のお返事はセンスあるわね」とか「つまらない返事ねえ」などと言っていましたが、このとき僕は初めて「ウケる快感」というものを知ったのかもしれません。
時に自分でその日記を書くと、母が推敲していたような記憶もあります。例えば「今日、何とかというNHKでやっていた犬の番組を見たくもないのに、親に言われて僕はしぶしぶ見ました。見たら犬にお手をさせるやり方をやっていました。僕は家の犬にもやらせてみました」などと書くと、「ラストに『犬もしぶしぶお手をしました』ってつけなさい」などと言うのです。すると先生から「『しぶしぶ』の使い方がなんとも言えずうまいねえ」などと返事をもらって、僕は人から褒められる喜びも得ていました。たかだか連絡帳の短い日記とはいえ、なにかを表現して他人に見せて反応があるということはことのほか嬉しかったのだと思います。
僕は自分自身を題材にした映画を作ったり小説を何冊か書いたりしましたが、そのほとんどが自分のみっともない部分、恥ずかしい部分を書いています。それはこのときの母のやり方が染みついているのかもしれません。
また、これまでに書いたいくつかのセリフも母からちょうだいしたことがあります。『百円の恋』という映画で、主人公の無職の父親が、無職の主人公にこんなことを言います。
「大人になってからも自分に自信がないってのはみじめだからな」
これは僕が23、4歳くらいのときに母からもらった手紙に書いてありました。当時の僕は映画学校を卒業して、相米慎二監督にくっついて丁稚のようなことをしていたのですが、そのときに映画の世界で生きていく自信を失いました。もともと自信もなかったのですが、はっきりと「俺は通用しない」と感じたのです。おそらくそんな頃に電話か手紙でなにか母に愚痴ったのでしょう。「今のうちに大いに自信を失いなさい」というようなことも書いてありましたが、「大人になってから自分に自信がないのはみじめ」という言葉の実感は当時の僕にはありませんでした。ただ、母はそれを実感しているのだろうなあということをそのときなんとなく感じとりました。東京で学生生活を送り、見も知らぬ鳥取というところに嫁いだ母にも何かあったのかなと薄ぼんやりと思ったのでした。だから妙にその言葉が心に残ったのかもしれません。「人でも食べ物でも、上等になるほど傷つきやすい」というような言葉も別の手紙に書いてありました。これもなにかで落ち込んでいるときにもらった手紙だと思いますが、いま書いているドラマに使いました。
小中高と文章を書くのが苦手だった僕は、小学生時代はそのように母の口述筆記でしのいでいましたが、中高生となるとそんなこともしなくなり、僕はまったく文章を書かなくなりました。かわりに母が薦めてくる本を少し読むようになりました。母は読書家で家にはいろんな本がたくさんありましたが、僕は本を読むことも嫌いでした。母があれ読めこれ読めといろいろと押しつけてきたのが、僕を読書から遠ざけていたのだと思います。ただ、中学になると学校で「読書の時間」という、みんなが家からお気に入りの本を持って来て読むという時間がありました。そのとき、大人ぶりたい僕は母に薦められた筒井康隆を持って行って、本ってけっこう面白いかもしれないなと思い、少しずつ本を読むようになったのですが、文章はまったく書かないままでした。中学の修学旅行や登山合宿の文集にも僕の作文はないので提出もしていないのでしょう。
次にまともに文章を書いたのは映画学校に入ってからだと思いますが、上手いかどうかは別としてなぜかスラスラと言葉が出てきて書けました。これはどうしてだろうと考えるに、小学生のときに散々やった口述筆記のおかげなのではないかと、いま思っている次第です。映画『ベスト・キッド』ではありませんが、壁のペンキ塗りが空手の技術として身体に沁み込んでいるような感じでしょうか。
母の口うるさい部分をすっかり受け継いだ僕は、娘や息子にうざがられながら本や映画を薦めたりしますが、二人とも僕の薦めるものにはあまり興味を持ってくれません。読書感想文などの口述筆記もやろうと試みるのですが、さらにうざがられるだけです。どうやら小学生の頃の僕は、とても素直で扱いやすい子供だったのかもしれません。「あたしのやり方がうまかったのよ」という母の声が聞こえてきそうですが。
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