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第21回 残像に手を伸ばす
[編集部からの連載ご案内]
『うろん紀行』でも知られるわかしょ文庫さんによる、不気味さや歪みや奇妙なものの先に見える「美しきもの」へと迫る随筆。この世界はこの世界だけのものなのか、今回はそんなもうひとつの世界の話。(月1回更新予定)
インターネット・サーフィンをしていたらNHKニュースの切り抜き画像が流れてきた。それは十年近く前の高見盛の引退を報じたもので、ひと目見るなりわたしは声を出して笑った。三つの異なる高見盛が、うっすらフェードアウトしながら重なりあっていたのだ。土俵の上で目を閉じて身体を力いっぱいに叩いている姿、黒紋付を着て口を開けて破顔しているところ、そして引退会見のさみしげながら満足そうな表情。NHKではフェードが多用されがちではあるけれども、それにしたって一画面に三高見盛は多いだろう。「個性派力士高見盛 惜しまれながらも引退」というまじめなテロップも相まってツボにはいり、数日にわたってこそこそと見返しては笑い続けて、ついには切なくなった。なんだかまるでついに叶うことのなかった夢、大関になった姿すらもがどこかのレイヤーに隠れていそうな気がしたのだ。
心がけていることがある。誰かと接するとき、そのひとが手にしていたかもしれないすべての未来を含めてそのひとだととらえるようにすること。運も実力だとか結果がすべてだとか、そういった考えが幅を利かせているのはわかっている。それでも目にしている結果だけを真実とするのは、あまりに非情で味気ないことだとは思いませんか。その身に起こったことを引き受けて生きていくことこそが人生の美しさなのかもしれないけど、ありえたかもしれない未来を想像することくらいは許されてもいいのではないか。
『素晴らしき哉、人生!』は、アメリカではクリスマスのたびにテレビ放送される定番の映画らしい(以降、重大なネタバレを含みます)。この映画でジェームズ・ステュアートが演じるのは、イブの日に自殺しようとする中年の男。彼は生まれついてのお人よしだが、ふとしたことから大金を失い、経営する住宅ローンの会社が倒産の危機を迎えて絶望していた。自分なんていなければと自暴自棄になる男だが、見知らぬ太ったおじさんが冬の川に飛び込んだところを咄嗟に助けてしまう。おじさんは実は天使なのだと明かし、もしも男が最初から生まれなければ世界はどうなっていたのか、不思議な力で男をその世界に連れて行って見せてくれる。男が子どもの頃、冬の池に落ちたところを助けたことのある海軍パイロットの弟は、男のいない世界ではそのまま死んでしまっている。愛する美しい妻は独身のまま、職場の図書館と家を往復するだけの寂しい日々を過ごしている。もちろん、かわいらしい四人の子供たちは姿形もない。街のひとたちが安く快適な家に住めるようにしなかったことで、人心は貧しくなり街は荒廃している。男は、周囲の幸福のために自分がどれだけのことを成し遂げてきたかを理解して、元いた世界に戻っていく。帰宅するとなんやかんやあって問題は解決、最後はみんなで「蛍の光」を合唱しながら大団円を迎える。メリー・クリスマス! 言ってしまえば観る前からあらかたオチの想像がつく、小市民的な幸福を描いた保守的なヒューマンドラマなのだが、わたしはこの映画を観るたびにぼろ切れのように泣き崩れてしまう。
一方で、毎回気になってしまうこともある。男のいない世界の妻は、かわいそうなだけの人生を送っているのだろうか? たしかにかわいい子どもたちはおらず、服装も地味だしどことなく陰のある表情をしている。もしかしたら内心では家庭への憧れを捨てきれていないのかもしれない。生活をするのにやっとなほど貧しく、不幸なのかもしれない。しかし彼女だってたしかに生きているわけで、そちらの世界ごと跡形もなく消し去ってよい存在だとは思えない。
男は自分を知らない妻に出会ったとき、彼女の魅力に胸を打たれただろうか。もっと知りたい、話をしてみたいと思っただろうか。自分や子どもたちのいない世界で妻は何を楽しみ、どのようにして暮らしているのか。たとえ孤独で侘しいものだったとしても、元いた世界の妻とは違う出来事があったはずで、ひとつひとつがかけがえのないものだったのではないか。そんなことを男は、元の世界に戻っても考え続けるのではないだろうか。家庭的で献身的な理想そのもののような妻の微笑みの奥に、あの世界の妻をいつまでも見出し続けるのではないだろうか。
本当はこの先に書こうと想定していたことがあったのだが、書いてしまってはなにかが決定的におかしくなるという確信があったので断念した。代わりに書くべきことも見つからないまま、あっという間に締め切りが過ぎ、悶々としているなかで祖母が急逝した。
わたしと祖母は仲がよかった。特にここ数年は月に何度も電話をかけ、会えばひと昔前の女学生のように腕を組むことさえした。二週間前に北海道に会いに行ったときは元気そのもので、一緒に茶碗蒸しをつくったり花札で遊んだりしたくらいだったから、あまりにも突然の出来事だった。
家族で思い出話をしていたら、
「本が出たって教えていたら、きっと喜んだのに」
と残念がられて泣いた。きっと喜んだだろうことは容易に想像がつく。わたしの文章が掲載された雑誌はすべて買って、老眼鏡をかけて端から端まで穴が開きそうなほど見つめて熟読してくれただろう。でも同時に、読まれることで傷つけたくなかったという恐れがずっとあった。どちらのほうが正しかったかはわからないが、まったく後悔していないとは言い難い。祖母にもしも告げていたらきっと、目を丸くして驚いて、大喜びでマンボのステップを踏んだだろう。危ないから気をつけてと言っても、気にせず踊っただろう。
いままさにわたしは祖母がつい最近まで使っていたベッドに寝転び、丁寧につぎをあてて補修された布団にくるまって目を閉じるところだ。まるで祖母のダンスの残像が見えてくるような気がする。その動きは実際に目にするよりもずっとずっと迫力があって、暗闇のなかから躍動感たっぷりに自分に向かってくるようだ。大いなる安堵感と、わくわくするような気持ちが起こる。ゆっくりまぶたを開けると、大きな2025年のカレンダーがテレビの下に貼ってあるのが見える。祖母はこのカレンダーをたったの18日しか使わなかった。いまはまだその18という動かし難い数字だけがたしかなもののように思えてしまうけど、いずれわたしの頭のなかでは18が19や20や30になり、さらには180や1800や180000000000000000000000000000……になるくらい、回転して振動して増幅して、まるでステップでも踏むみたいにして踊り出す日が来ることを願う。
わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『試行錯誤 別冊代わりに読む人』に「大相撲観戦記」を連載中。『ユリイカ 2024年6月号』(特集=わたしたちの散歩、青土社)に「思い出すための散歩」を寄稿。Twitter: @wakasho_bunko
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