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26 狂気と正気

[編集部からの連載ご案内]
白と黒、家族と仕事、貧と富、心と体……。そんな対立と選択にまみれた世にあって、「何か“と”何か」を並べてみることで開けてくる別の境地がある……かもしれない。九螺ささらさんによる、新たな散文の世界。今回がひとまずの最終回です。


人は基本動物で、動物のままなのが、イコール人間の狂気なのだと思う。
なぜ始まったのかもう誰にも説明不可能で、そしてもうどうしてもやめられない戦争というのは、ある狂気の正体なのだと思う。
燻った、動物の攻撃本能としての怒りエネルギーの発散の正当化。
 
中島敦の『山月記』やカフカの『変身』が魂にズシンと響くのは、わかってしまうからなのだろう。
虎や巨大な昆虫は、狂気の比喩だ。
知性やセルフコントロールの放棄だ。
李徴は詩人となる夢に破れ、グレゴール・ザムザは繰り返す日常を拒否した。
動物園で動物を見てゾッとすることがあるのは、その動物が自分の前世か来世だからなのだろう。
 
猿と袂を分かってからこの方、人は自らに不自然を強いている。
人の定義は「不自然なこと」と言ってもいいくらいだ。
その不自然が続くと、ある日突如として虎や巨虫になってしまう。
「そんな不幸」の予防策として、人には料理のスパイスのように微量のクレイジーが必要となる。
僅かに狂い、爆発しないように少しずつガス抜きせねばならない。
 
クレイジーとは、日常というメロディーからの逸脱。
人という服を脱いで心を裸にすること。つまり動物エネルギーの発散。
その方策として人は、絶叫マシンに乗る。
バンジージャンプを飛ぶ。
地獄的な辛さのラーメンを完食し、カルト集団のごとく広場で火を焚き祭りをする。
B’zのライブで「ウルトラソウル!」と一斉に跳ぶ。
「来ちゃった」と、好きな人の部屋に瞬間移動する。
 
狂気とは、人間のみにあることで、動物にはない。
動物は自身を不自然に矯正していないから。
だとすると狂気の逆の正気とは、実は省エネのことなのかもしれない。
ピアノの鍵盤の、真ん中のドレミの白鍵しか使わないことが「正気を保つ」ことなのかもしれない。
人は本当は四方八方に蜘蛛のように動けるのに、前にしか進めないと誤解しているのかもしれない。
実は口から糸が吐けるし、それで家を作って食物も獲得できるのかもしれない。
でも、その力を出しきると狂ってしまうから、気づかないふりをして可能性に蓋をしているのだろう。
 
よって人は、ハンモックに憧れ続ける。
蜘蛛の巣のようなそれに寝そべって自らを揺らし、狂気を他人事にして安心する。
夢破れても虎にならないよう、目覚めて巨虫になっていないよう、潜在能力を切り落とし、正気で平凡な明日に備える。


絵:九螺ささら

九螺ささら(くら・ささら)
神奈川県生まれ。独学で作り始めた短歌を新聞歌壇へ投稿し、2018年、短歌と散文で構成された初の著書『神様の住所』(朝日出版社)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。著作は他に『きえもの』(新潮社)、歌集に『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房)、絵本に『ひみつのえんそく きんいろのさばく』『ひゃくえんだまどこへゆく?』『ジッタとゼンスケふたりたび』『クックククックレストラン』『ステッドのホテル』(いずれも福音館書店「こどものとも」)。九螺ささらのブログはこちら

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