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第8回 型通りなセックスシーン

[編集部からの連載ご案内]
脚本を担当されているNHK朝ドラ『ブギウギ』もあっという間に今週で折り返し。スズ子と愛助のこの先はいかに? そんないま大注目の脚本家・監督の足立紳さんによる、脱線混じりの脚本(家)についての話です。(月1回更新予定)


どなたの書かれた、どの本に書いてあったのかどうしても思い出せないですし、それがなにをテーマに書かれた箇所だったのかも失念気味なのですが、以下、超おぼろげな引用にもなっていない引用をしてみます。

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映画やドラマの中で恋人同士が公園かなんかで二人向かい合って、どちらかが別れを切り出して、切り出されたほうは驚く。そして、切り出したほうは例えば「ごめんなさい。悪いのは私……」などと言って数秒相手の顔を見つめて、「元気でね……」とかとつぶやいて踵を返して去っていく。数歩歩いたところで、振られたほうが「ねえ!」と呼び止める。すると振ったほうが立ち止まる。2秒ほどの無言があり、「本当に終わりなの?」と振られたほうが聞く。振ったほうはしばし前方を見つめたままでいるが、やおら振り返ると「幸せになってね」と涙の笑顔で去っていく。というような場面を見たことがある観客あるいは視聴者は多いとかと思う。
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どの本だったのか忘れてしまったその本に(家にあるいろんな映画本を調べたのですが見つけられずで、心当たりある方がいらしたらぜひ教えてください!)そんなようなことが書いてあり、それは別れのシーンの「型」のようなことについて書かれていた気がするのですが、それも定かではありません。読んだのはきっと10年以上も前のような気がしますが、とにかくそんな別れのシーンをご覧になったことがある方は多いと思いますし、僕もそんなシーンを何度も書いたことがあります。

ですが、実際はこんな言葉と動きで別れるカップルはほとんどいないでしょう。いたとしたらあまりにもドラマじみていて、その二人は途中で笑いだしてしまいそうです。このように映画やドラマには誰もが不自然と気づいていながら、暗黙の了解で受け入れていている「型」のようなものがあります。その本にもそういうことが書かれていたような気がするのですが、今回はそんな「型」について、特にセックスシーンの型について書いてみます。

映画やドラマで描かれるセックスシーン(「濡れ場」とも業界では言いますが、どうもこの言い方が妙に気恥ずかしくて僕はなんだか口に出しづらいです。ウィキペディアによると、「濡れ事」という情事を意味する言葉から来たようで、もともとは歌舞伎用語だったようです。初めて知りました)についてですが、これもかなり「型」が決まっています。胸元まできっちりと布団やシーツをかけていますし、体位もほぼ正常位しかありません。いろんな制約があるので致し方ないと思いつつもあまりに不自然です。他にも「セックスが終わってすぐに下着をつけすぎ」とか(そういうキャラに無理やり見ることはできる)「衣服を脱ぐシーンがない」などの「型」が目につきます。

あまりにもファンタジーになりすぎてはいまいか、いえ、ファンタジーではないですね。苦肉の策とはいえなんだかもう「なにこれ……?」という感じですが、そこは暗黙の了解があるので、視聴者や観客はあまり突っ込みません。ですが、僕はどうしてもこういう誰が発見したのかわからない型通りのセックスシーンを書いたり撮ったりすることに抵抗があります(と言いつつそんな場面をやはり書いてしまっていますが)。

というのは、セックスシーンというものには実はその登場人物のひととなりがものすごく出るのではないかと思っているからです。なにせ己のすべてをほぼさらけ出すわけですから、登場人物の性癖くらい少しは見えてもいいのではないでしょうか? 「あ、この人ってこんなところが性感帯だったんだ……」とか、「この男の人、行為中に随分しゃべるなあ」というその人の癖や個性が見えると、ドラマや映画を見ていてワクワクドキドキするポイントになるのではないかと思うのです。

ちなみに僕が脚本を書いた『百円の恋』という映画のセックスシーンでは、セックスしながら男が女に「乳首をつねってくれ」と言います。もちろんそれが男の性癖です。性癖というと大げさですが、乳首が性感帯なのだということがわかります。それを行為中に相手に頼めるというのはキャラクターの重要な一部だと思いますし、そういう目線でお客さんもこの男を見ていきます。クランクイン前に僕が「このセリフだけは切らないでください!」と武正晴監督にお願いした場面でもありました。武監督は「切るわけないじゃん、あんな面白いセリフ」と言ってくださったのですが、やはりセックスシーンというのは、なんとなく流れで、先述の別れのシーンではないですが、型通りに撮られてしまうことが多いのではないでしょうか。

ドラマや映画の脚本を読んでいても、セクシャルな場面というのは実に簡潔にト書きが書いてあることが多いです。「キスする」とか「セックスする」などと一行の場合もあります。もちろんその一行だけで、あ、こんなキスだろうな、こんなセックスなんだろうなとそれまでの流れからキャストやスタッフは思い浮かべることのできる場合もありますし、あえての一行!ということも、特にキスのシーンではあるかと思いますが(「キス」などとト書きに一言で書かれているとドキドキすることもありますので)、それがセックスとなると演出する監督も演じる俳優も「え……セックスするって言われても……?」となりはしないかと思うのです。

やや「型」から外れた話になってしまいますが、「セックスする」と一行で書かれた台本をもらった俳優さんや監督さんの現場での困惑ぶりは目に見えるようです。「この二人、どんなセックスをするんだろうね」と、話し合いの時間がたっぷりととれていることはほとんどないと思われます。その証拠が、蔓延する記号的なセックスシーンです。セックスシーンには登場人物のキャラクターが本来は出るものと書きましたが、そのセックスシーンの脚本上での描写がおざなりでは、「あとはお任せします」と書いているのと同じです。そんな台本が来たら、監督も俳優も頭に刷り込まれている記号的なセックスシーンを作る、演じるしかないでしょう。場合によっては恥ずかしい思いをして普段の自分を出さざるをえなくなるかもしれませんし、それはハラスメントというものでもあると思います。

なにもポルノ映画とかアダルトビデオのようにセックスそのもので人間を描け(アダルトビデオやポルノ映画には人間を描くよりも性を消費・搾取するだけのものがたくさんありますが)と言っている訳ではありません。セックスというセンシティブでプライベートな場面だからこそ、脚本には丁寧に書く必要があると自戒を込めて書いています。そこにキャラクターが見えるべきだと思うのです。近ごろは、セクシャルなシーンの撮影時に俳優と演出サイド双方の意向を確認して、互いに最高のパフォーマンスを発揮できるように導くインティマシー・コーディネーターの方も入ってセックスシーンを作っていくことも増えてきていますので、安全・安心な現場作りがなされるとともに、これまでのような、人間がどこにも見えない、ドラマでしか通用しないセックスシーンではなく、少しでも登場人物のキャラクターが見えるセックスシーンが作られていくと良いなと思います。

「あ、このキャラクターはこんなふうにキスするんだなあ」とか「え、実は早漏だったんだ」とか、すべてキャラクターになります。セックスそのものでなくともいいと思います。セックス前にちゃんと下着を脱ぐようなシーンがあるだけでも、「あ、この人、こんなふうに両足いっぺんにパンツを脱ぐんだ……几帳面すぎない? ちょっとキモい……」とか、そういったところからでもキャラクターがチラチラと見えたりするものです。ちゃんと描かずに「型」というものでやり過ごすのは、氾濫するエロ動画を性の手本としてしまうようなこととも通じていると言うと大げさでしょうか? 書いているうちに、そんなことまで思ってしまいました。

足立紳(あだち・しん)
1972年鳥取県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、相米慎二監督に師事。2014年『百円の恋』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞、菊島隆三賞など受賞。2016年、NHKドラマ『佐知とマユ』にて市川森一脚本賞受賞。同年『14の夜』で映画監督デビュー。2019年、原作・脚本・監督を手掛けた『喜劇 愛妻物語』で第32回東京国際映画祭最優秀脚本賞を受賞。その他の脚本作品に『劇場版アンダードッグ 前編・後編』『拾われた男 LOST MAN FOUND』など多数。2023年後期のNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の脚本も担当する。同年春公開の監督最新作『雑魚どもよ、大志を抱け!』でTAⅯA映画賞最優秀作品賞受賞。著書に最新刊の『春よ来い、マジで来い』ほか、『喜劇 愛妻物語』『14の夜』『弱虫日記』『それでも俺は、妻としたい』『したいとか、したくないとかの話じゃない』など。現在「ゲットナビweb」で日記「後ろ向きで進む」連載中。
足立紳の個人事務所 TAMAKAN Twitter:@shin_adachi_

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