23 花火とケンカ
花火は、ケンカだ。
ケンカは、花火なのだ。
どちらも、内部情報の短時間での全暴露。
だから、人は見物する。
あの化学薬品とあの化学薬品を掛け合わせると、あの色になるのか。
つまりこの人の現恋人があの人の前恋人なのか。
一目一聴瞭然。
一年かけて、この花火大会のために仕込んだのだから。
自分の青春をかけて、恋愛をしたのだから。
コスパが高い。
見世物として、成り立つ。
花火大会では、失敗は禁物。
ケンカでは、ここでケリをつけねば一生の恥。
ゆえに、緊張感が半端ない。
その緊張とそののちの解放のカタルシスを、人はハレと呼ぶ。
そして、日常のアクセントにする。
緊張の半端なさの限界が、即ち爆発の発端。
「たーまやー」 大拍手。
「ふざけんじゃねえよっ!」 心の中で大拍手。
同心円に、火花が散る。
相手の脳内に、火花が散る。
そして花火は消える。
そしてケンカは終わる。
それはひとつの小さな死。
ケンカとは、つまり相手を負かそうとする試み。
ゆえに、短い言葉に凝縮して打ちのめそうとする。
結果、その文句は怒りの詩になる。
「詩のボクシング」という催しがあったけれど、競わせることで言葉は研ぎ澄まされる。
でも実は、人は誰かを負かせない。
負けるのは、過去の自分だ。
口から言葉を出しきった二人は、出しきられた情報をシェアすることになる。
だから、ケンカしきった二人は、誰よりもわかり合える無二の親友になることもある。
花火の残像は、見た人の心に染み入る。
見物客たちは、そのしんみりした情感をシェアする。
だから、「また来年会おう」と一年間疑似親族になる。
江戸は花火とケンカの町。
民権のない町民たちは、その二つの爆発の見物により、日頃の鬱憤を炎上消化させた。
家人を送り出す際に人が火打石を鳴らしたのは、ケンカの火種をそこで燃やし、出先でケンカに巻き込まれぬようにとのプチ花火大会だったのだろう。
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