第20回 わたしかわいい
自分の外見について書くとき、必要以上に「醜い」側に倒して描写しているな、という自覚はあった。文章を書くときくらいはせめて誠実でありたい。そうでないと自分のことを永久、許せなくなってしまいそうだから。だとしたら、自分の醜さをやたらに強調することは保身にひた走るねじくれた気持ちの現れだから、即刻やめたほうがいいだろう。「醜さを自覚しろ。身の程を思い知れ」と言われるのが恐ろしくてたまらず、「わかってます」とあらかじめ宣言でもするように、醜さを誇張して書いてしまう。見慣れてしまったこともあって、本当はそこまでひどく醜いとは思えない。でも、他人には醜く思われているんだろうな、という意識がずっとある。醜いとみなされた嫌な記憶は繰り返し頭にやってきて粘ついたとりもちみたいになり、わたしから軽やかさを奪っている。憎い。とても。憎いな~、ルララ、と歌わないとやっていられないくらいやりきれない。
肉体を持たないただの光になりたいと幾度となく夢想した。みんな光になってしまえばいい。でも今度はそうしたら、好印象を与える波長とか、恋愛対象の気をひく点滅方法とかが出てくるのかもしれない。そうすればわたしの光はきっと醜いということになるだろう。
というわけで、できることなら親ですら直接の対面を避けたいわたしにとって、コロナ禍をきっかけに広まったオンライン会議は文明の利器、人類の叡智の結晶であった。会議にもよるけど弊社では基本的に顔出し無し。わたしの醜さに気を取られてお客さんの頭に内容がはいっていかなかったらどうしよう、という心配は無用だ。自由を手に入れたわたしは、とある難しめの調整のために資料を入念に準備し、隙のないよう論理を構築して会議に臨んだ。結果はいい感じ。誰も不利益を被らず、将来の展望も見えてくるような大成功におわった。ヤッタァと声をあげそうになるほどで、リモートワークで自室にひとりきりなのだから別にあげてもよかったのだが、しれっと涼しい顔をして議事録の修正のために録音を再生したら、腰が砕けて椅子からずり落ちそうになった。
――なんかわたし、モニモニしゃべってない? 二頭身のキャラクターみたいな話し方してない? 愕然とした。あんなに周到に備えたのに、わたしはこんなにも馬鹿みたいな話し方をしていたのか! こう、もっとあるだろう、やり方ってものが。きりっとした、できるひとみたいに話していると思っていたのに、実態は二頭身。これから書くのは本当に勇気がいることだけど、そう思ったのだから素直に書く。録音のわたしはかわいかった。つたないなりにがんばって話していた。とっくの昔に成人しているのに。同い年の友達はみんな子どもを育てているのに。しかしわたしは、まごうことなき「かわいい」だった。もちろんこの「かわいい」は、アイドルのような研ぎ澄まされた「かわいい」ではない。もっと凡庸でプリミティブな、土偶のような「かわいい」。かわいいものしか出てこないテレビゲーム「星のカービィ」のプププランドに出てくるカスの敵キャラみたいな。カービィが飲み込んでも能力を得られず、投げつけるためだけの白っぽい星になるほかないカスの「かわいい」。
わたしはこんなにもかわいかったのか……。特段嬉しくも悲しくもなく、事実としてそうだった。東から登ったお日様が西に沈むような、「かわいい」。それからはことあるごとに、(いやー、わたしはかわいいしな)と思うようになった。だって、事実なのだからしょうがない。太ろうが痩せようが年をとろうが病気になろうが、わたしの根源的なモニモニ感が失われることはないだろう。どうですか、許せないですか?
「きれい」と比べたら「かわいい」のほうが、射程が広い気がする。「かわいい」には「醜い」をも包みこむ懐の深さがある。子泣き爺と砂かけ婆は、細部をじっくり見たら「醜い」かもしれないけど、しかしやっぱり「かわいい」。じゃあ、子泣き爺や砂かけ婆とキスやセックスをしたいですか?となるとまた別の問題となるわけで(個人的にはそんなの関係性と状況次第だが)、欲望されたいとか大切にされたいといった要素が加わると、「かわいい」の射程はぐんと狭くなる。狭くなった「かわいい」を、針で突くように極めるひともいるだろう。なにかを極めた先にはいままでにはない景色が広がっているはずだから、武士が己の道を極めるように「かわいい」道を化粧でも手術でもなんでもして極めることは、誹られることではないはずだ。でも、みんながみんな針で突かねばならない、となるのは息苦しい。射程の狭い「かわいい」が押し付けられているように感じるとき、「かわいい」は呪いの言葉に変わる。
ロシア未来派の詩人、アレクセイ・クルチョーヌイフは「言葉そのものの宣言」という論文で、
百合(лилия)は美しいが、しかし百合という語は手あかにまみれ、「凌辱されて」おり、醜いのだ。それゆえ私は百合をィエウイ(еуы)と名付ける――原初の純粋さが回復される。
とした。百合という言葉はいろんな場面で使われていて、すでにさまざまなイメージがついてしまっている。だから百合そのものの美しさを表すために、新しい言葉(クルチョーヌイフはそれを「ザーウミ」と呼んだ)の「ィエウイ」を使うのだという。では、「かわいい」を「ィエイイ」とかにすればわたしは満足するかというとそんな気はせず、頻繁に見聞きする「かわいい」という言葉のままに、原初の純粋さを回復したいと願っていることに気がつく。
ミーガン・ジー・スタリオンは「Mamushi(feat. Yuki Chiba)」で、このように日本語でラップしている。
私、可愛い いい体
ミーガンに日本語で言われると、「そうですね」としか言いようがないなという気になる。自分のことを「かわいい」と言うのはものすごくハードルの高いことのように思われるが、ミーガンにてらいなく言われると、こちらとしては首肯せざるをえない。事実、たしかにミーガンは「かわいい」し、魅力的な体つきでもあるのだけど、それ以上にミーガンが発声する「かわいい」には嫌な記憶がまとわりついていないから、まっすぐこちらに届くのではないだろうか。子どもの頃に並べられて親戚たちに品評されたり、教室にランキングの書かれた紙が落ちていて自分の名前を見つけたりといった記憶が、「かわいい/かわいくない」という言葉と紐づいていない。もしかしたら似たような嫌な記憶自体はあるのかもしれないけど、ミーガンのなかでは別の言葉に紐づいているはずだ。
山本敦弘監督の『リンダ リンダ リンダ』は、女子高生のバンドに韓国から来た留学生がボーカルとして加入し、学園祭でTHE BLUE HEARTSを演奏するという映画である。留学生役のペ・ドゥナはステージで「リンダリンダ」を歌う。
ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから
母国語ではない言葉で歌われるとき、イントネーションの滑らかでなさはかえって丁寧さとうつり、言葉のひとつひとつの意味が刺さるようにこちらにくる。そこに冷笑や自嘲はない。「ドブネズミみたいな美しさ」とは、そもそもが「美しさ」のイメージを揺れ動かすため、カウンターのために作られた言葉だろうけど、ペ・ドゥナが歌うことによってそこにはカウンターですらない、あるがままの「ドブネズミみたいな美しさ」のイメージが現れる。つややかな毛並みに柔らかな身のこなしにみずみずしい瞳。言われてみればたしかにドブネズミは美しい。だからすべての言葉を外国語みたいに大切に扱えば、しがらみから逃れてひとつひとつの意味に純粋に触れることができるのではないだろうか。わたしが今回言いたかったのは、そういうことです。
※アレクセイ・クルチョーヌイフについてはウィキペディアを参照。「言葉そのものの宣言」は邦訳なし
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