第15回 脚本家は撮影現場に行くべき?
数年前からインティマシー・コーディネーターという職種をよく耳にするようになりました。僕自身、勉強不足で大変恥ずかしいのですが、インティマシー・コーディネーターが詳細にはどういう仕事をする職種なのか、どんな勉強をしてその資格を得ることができるのかということを正確には知りません。それを知らずにその職種について触れるのは勉強不足をもっと晒すことになり、触れるべきではないかもしれませんが、個人的にはどんな分野に関しても勉強不足の人が発言できないのはあまり良いことではないような気もしているので、今回は開き直ってインティマシー・コーディネーターという存在と、そこから派生して少し思っていることについて書いてみます。
まずインティマシー・コーディネーターという職種ですが、日本ではまだ数人しかその資格を取っている人がいない状況のようです。というのは、日本国内ではその資格が取れないというのが原因のひとつかと思います。どうしてそういう状況なのかはこれもすみません、勉強不足でよくわかりませんが、国内でも取れるようになると急速に普及していくと思います。仕事の内容はと言いますと、インティマシー・コーディネーターの方がインタビューに答えられている言葉を引用しますが、「映像制作に置いてヌードや性的な描写などのインティマシーシーンを撮影するにあたって、俳優のみなさんが肉体的、精神的にも安心安全に撮影できるように、かつ監督の意向が最大限発揮できるようサポートするスタッフです」とのことで(浅田智穂さん「朝日新聞GLOBE+」2024年2月21日)、僕の抱いているインティマシー・コーディネーターの印象もだいたいこの言葉通りで、それ以上深掘りすることもないままでいます。もちろん、インティマシーシーンにはインティマシー・コーディネーターの方がいたほうがいいですし、必須になるべきといいますか、カメラマンがいない撮影現場がないようにそれが当たり前になればいいと思います。これまで僕が携わった作品にはインティマシーシーンがあるものもありましたが、インティマシー・コーディネーターは一度もついたことがありません。理由としてはその職種がまだなかったからなのか、はたまた不勉強すぎて知らなかっただけなのか、そのどちらかではありますが、今後はそういったシーンには先ほど書いたように必須になるべきと思います。
以前、この連載の第8回で「型通りなセックスシーン」というテーマのもと、本来ならばその人物のキャラクターが出るべきセックスシーンが、とにかく肌を見せないことを目的とした「型」で終わってしまうケースが多いことや、場合によっては俳優さんや演出する監督が個人の性的な部分を出さざるをえないこともあると書きました。自戒を込めてもう一度書きますが、セックスシーンに関して、脚本家はもっともっと丁寧に脚本を書くべきだと思います。オリジナル脚本の場合、脚本家はその登場人物について知り尽くしていることになっているわけですから、よりそういった繊細な部分は現場に丸投げせずに、文字で書いておくことが大切な気がします。
で、毎度のごとくようやくここからが本題というのか、提言のようなものなのですが、脚本家が従来よりもインティマシーシーンを丁寧に書くことによって、脚本家もそのシーンに思い入れを持つと思うので(仮に「セックスする」などの一言のト書きだったとしても思い入れはないといけないと思いますが)、脚本を渡したらあとは現場にお任せしますとせずに、現場に行くべきではないかと思うのです。現場では常になにが起こるのかわかりませんので、状況に応じて脚本が変更される場合があります。インティマシーシーンのように現場で丁寧な議論が起こる可能性のある際には、脚本家が現場にいないと、脚本家の思いはないがしろにされがちな気がします。もちろんそのために、監督と脚本家は脚本作りの段階で綿密に話し合っておくべきでしょう。そのほうがより、現場で混乱や不快・不健全なことが起きないのではないかと思うのです。
いくら準備しても現場では予想外のことが起きます。なにか脚本を少しでも変更しないといけない状況になったとき、脚本家がその場にいなければ脚本家の意向というものは自然と真っ先に排除されてしまう不安を覚えます。ですので、できればその場に脚本家もいたほうがいいと思うのです。もしかしたら、現場のキャストやスタッフが安心・安全に撮影できる状況に変更するということが、脚本家にとっては、書いた脚本の真意・意図とはずれていく事態になる、そんな可能性もないとは言いきれません。もちろんこれは、台本に書いてあるように撮れということではなく、その話し合いの場に脚本家もいたほうが脚本家にとって良いという意味です。自分の書いた脚本を守るという意味でも、そして、脚本の変更を余儀なくされたとしても、なるべく傷つかず、そして納得して、なおかつその場で面白く内容を書き直せる可能性を考えてみても、です。
ちなみに話はだいぶそれますが、セックスシーンというのはなんだか生々しく撮ったり、どれだけ肌が見えたかで、たとえばネットニュースなどで話題になったりならなかったりしますが、それこそゲスの極みだと思います。そういった目線のニュースも無くなっていけばいいのにと思います。いかにその場面で人間を描けているかが勝負なわけですから、セリフだけでもじゅうぶんに面白いセックスシーンは描けると思いますし、多くの肌の露出が必要という場合ももちろんあるでしょう。難しいのは仮に肌の露出度が高い演出を狙うとき、「なぜ露出度の高さが必要なのか?」と問われて、現場のキャスト・スタッフ全員が納得のいく答えを用意することができるのだろうか、ということです。「この二人は裸でセックスするタイプで、胸元までシーツを上げていたり、不自然な体勢をとらせたり肌を見せないためだけのカメラワークはしたくないので胸を出したい」という説明では今は無理な気がします。これ以上の露出がこの作品になぜ必要なのか、という理由が制作サイドには求められているのだと思います。連載第8回で例に出したような不自然極まるセックスシーンは、人間が描けていないのでちっとも面白くありません。本来すべてのキャスト・スタッフは、その関わる作品が面白くなることを考えているはずなので、セックスシーンに限らずどんなシーンの場合でも、誰もが傷つかずに面白くする話し合いが行われるべきで、そのために脚本家は丁寧なト書きとセリフを書かなければなりませんし、現場で議論が起きた際にはその話し合いに脚本家の参加も当然となってくるべきかなと思います。
そしてここからがさらに本題といいますか、提言といいますか、言いたいことなのですが、脚本家の方はなるべく自作の撮影現場にたっぷりと行くべきだと思うのです。議論の起きそうなシーンだけでなく、毎日行ってもいいくらいだと思います。他の仕事を抱えていて忙しくて行けないとか、脚本作りの段階で監督やプロデューサーと仲たがいしてしまうこともあるでしょうが、「自分の書いた脚本をあとは現場で好きなようにいじっていただいて大丈夫です。いっさい文句はありません」という状況のとき以外は行くべきでしょう。脚本家が現場にいることによって、その場で脚本が変わるとき、「こうしていいですか?」と聞いてもらえます。脚本を少しでも変えるのは、本来は脚本家がいない場ではやってはいけないことだと思うのです。カメラポジションを50センチだけ動かそうと、カメラマンに無断でやる人がいないのと同じです。セリフが言いづらいから変えるとか、長いから少し切るとか、本当は脚本家がいない場所ではやっちゃダメなんだよと脚本家はもっと言うべきです。アドリブだって脚本家によっては余計なことをしてくれるなと思う方もいらっしゃるでしょう。
バラしちゃいますが、多くの脚本家は脚本家だけで飲んだりしていると、いかに自分の脚本がないがしろにされているかなんて愚痴や文句をたくさん言っていますから。その割に「現場には居場所がない」などとぬるいことを言っては、手塩にかけて育てた子供のような脚本の行く末を見届けない方が多い印象があります。まずは自分自身が絶対に脚本をないがしろにしないことです(なんて偉そうなんだろう、俺)。ただ、今はさらにやさしい世の中になるべくして世界は動いていると思いますので、あと10年もすれば現場に脚本家の居場所がないなんてこともなくなるかもしれません。もちろん皮肉半分ですが。
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