24 存在と情報
存在とは、言い換えると情報のこと。
存在感があるとは、つまり情報量が多いことなのだろう。
例たとえば、絵画の展覧会に行くとする。
行こうとする人は、案内ハガキの住所を頼りに、そこを目指す。
「そこ」は、まず文字情報でしかない。
文字情報と認識する前は、単なるインクの染み、視覚情報であった。
文字情報を信じ、ベクトルを定め歩きだす。
ハガキの地図に印刷されている小さな通りに入った。
選択肢が狭まり、つまり位置情報の解像度が増し、真実味、いわゆるリアリティーが濃くなった。
右に郵便局、左に公園。よし、合ってる。
ハガキを手に、神様との答え合わせ。
目の前に、会場が見えてきた。
会場の存在を目の当たりにし、脳内と脳外が一致、感動、というフェーズ。
会場の中に入る。
すると絵が壁にかかっている。
一つひとつを点検する。
本当に、本物か。事実、存在しているか。
触ってはならず、嗅覚や聴覚の情報もこの場合あてにならないため、視覚情報のみに頼るほかない。
じっと見つめてそれが本物だと信じると、今日の任務は終わり。
来た甲斐があった、というゴール。
そして会場をあとにする。
しかし気を抜いてはならない。
何度も何度も振り返り、会場の存在が消されていないか確認する。
右から振り返り、左から振り返る。
少しリズムを崩して不意を突き、また振り返る。
神様との、だるまさんが転んだ勝負。
駅に着くと構内でシウマイ弁当を買い、グリーン車の席で食べる。
カマボコはあるか、卵焼きは抜けていないか。
包みの「シウマイ」の文字が「シューマイ」に書き換えられてはいまいか。
シウマイの端にプラスチック製の醤油入れはあるか。
くっついた俵むすびの上に黒ゴマと梅干しはあるか。
存在玉にきずの間違いさがしは続く。
電車を降り、いつもの道と思い込んでいる道を歩きだす。
家が見えても油断禁物。
あれはただの視覚情報のバグではないか?
スマホを指でピンチアウトするように、我が家の位置情報の解像度を高めるべく、接近する。
帰る家が存在していたことを信じると、鍵を開け、中に入る。
しかし神様とのゲームは終わっていない。
あとは寝るだけとなったとき、やっと、「今日のところはこの世は存在していた」と神様に白旗をあげ、目を閉じ脳内を夢情報の感受へとスイッチするのだ。
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