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02 花丸となると

[編集部からの連載ご案内]
選挙が終われば勝ったと言い合い(白と黒)、生活でのバランスに四苦八苦し(家族と仕事)、円安と物価高が格差を広げる(貧と富)……。そんな対立と選択にまみれた世にあって、「何か“と”何か」を並べてみることで開けてくる別の境地がある……かもしれない。『神様の住所』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した九螺ささらさんによる、新たな散文の世界です。(月2回更新予定)


花丸を描くとき、わたしは中のぐるぐるから描く。
その向きは、左から時計回りに上がって右に落ちながらラストの花芯へと巻き込んでゆく。

これはわたしが右利きだからで、左利きの人は右から反時計回りに上がって左に落ちながら巻き込んでゆくのかもしれない。又は、花芯から外に向かう描き方もあるのかもしれない。

花丸を描くときには、必須の気分がある。
それは、やっと春を迎えるときのような、そわそわワクワク感である。
二重丸、三重丸ならば、それがなくても構わない。バレない可能性が高い。

しかし、花丸などという、描かれる花にとっては一世一代の晴れがましい現場では、嘘は微塵も許されない。

花丸を描くときには、心が丸で花でなければならない。

花丸とは花見好きな民族の、「ここにも花を」、「ここにこそ花を」運動なのであり、それは赤い羽根募金のような、善意のおすそわけ活動でもある。

花丸、花丸、また花丸!
生徒の答案用紙に花丸を描き続ける先生は、生徒愛にあふれている。
祭りだ祭りだまた祭り、を歌い続けるサブちゃんと同じ祭りなのだ、花丸祭りは。
花咲か爺さんが灰を撒くと花が咲く、その花が、花丸によって紙上に咲くのだ。

だから先生たちは、花丸を描く赤ペンを真剣に選ぶ。
どの赤ペンならわたしの愛の花を咲かせられるか。
それは重大な問題である。

なるとは、その花丸が魚肉化したものである。
魚肉化されたのではない。
花丸自ら、魚肉化したのである。

それはある春の終わり。
海に浮かんでいた無数の花丸たち。
海の藻屑となるべく沈みかけたところへ、魚の群れ。
花丸たちは起死回生をかけ、その群れに、自ら食われにいったのである。

魚がすり身にされ、すだれの上で平たく伸ばされたとき、気を失っていた花丸たちは一斉に目を覚まして浮上した。
くるくると巻かれて蒸されると、花丸たちは鮮やかな色を取り戻した。
切られると、断面には昔の自分たちそっくりの花丸。
花丸たちは、切られて死にながら、別次元に転生しているのだった。

そうして息を吹き返した花丸たちは、なるとの魂として、今日もラーメンの汁の上に浮かぶ。

ラーメンをすする人たちの心に、花を咲かせるために。
一度灰になってしまったそれぞれのいくつかの夢を、再び開花させるために。


九螺ささら(くら・ささら)
神奈川県生まれ。独学で作り始めた短歌を新聞歌壇へ投稿し、2018年、短歌と散文で構成された初の著書『神様の住所』(朝日出版社)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。著作は他に『きえもの』(新潮社)、歌集に『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房)絵本に『ひみつのえんそく きんいろのさばく』『ひゃくえんだまどこへゆく?』(どちらも福音館書店「こどものとも」)。九螺ささらのブログはこちら

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