14 なんまいだと千枚田
なんまいだと千枚田は、同じベクトルの祈りなのだと思う。
なんまいだは、南無阿弥陀仏の変形。
それを呟くのと、千枚田を眺める行為は、祈祷のカジュアル化という意味において、同じなのだと思う。
祈りって、一体どこにどんなふうに捧げればいいの?
というのが、目を開けて生活している人たちの困惑だ。
目を開けていると、雑念の物質化しか見えない。
その状態で悟りを開けたら本物だが、忙しい日常の中でそっちの本物になってしまうと、戻れなかった場合に都合が悪い。
でも、そんな日常でも祈りコンディションに入りたい。
そんな人にうってつけなのが、なんまいだと千枚田なのだ。
単純を重ねると、リズムが出る。
そのリズムに乗ると、雑念をシャットアウトできる。
これを形にしたのが、和太鼓ベースの祭りであり、南無阿弥陀仏つまりなんまいだであり、千枚田なのである。
ただ「南無阿弥陀仏」と唱えればいいのですよ。
そう説いた法然は偉大である。
南無阿弥陀仏とは現代風に言うと、一種のラップなのだが、ラップとはつまりカジュアルなハレ。
ハレを感じることで、またケを続行できる。
単純な繰り返しを言う、聴く、見ることで、我々は別次元に入れる。
別次元に入ることが、ある意味祈りなのだ。
(トランスとは別次元に入りっぱなしの放電状態で、これを放置すると祈りを通り越して幽霊まっしぐらなので気をつけたい。)
祈りのコンディションとしての理想は、外部遮断状態で心を全空にすることだが、それをすると一般人は生活不可能&発狂する。
生活しながら正気なまま祈りたい貪欲で不幸な我々は、五感全開でふしだらに感じながら、心の一部になんとか空きを作り、そこで簡易祈祷したい。
しかし、心の空きには不安が巣食いやすいため、そこを代替物で埋めておきたい。
そこにぴたりとハマるのが、意味を失ったなんまいだの繰り返しであり、観賞対象としての千枚田なのだ。
この二つは、心の空きの埋め合わせでありかつそのまま祈りであるという、宗教界の省エネ革命なのだ。
千枚田はリピートコピー光景でありつつ、人為的稲作光景のため郷愁もMAX。
おまけに名前が「なんまいだ」と聞き間違えるほど似ているため、聴覚神経回路で脳内に神も仏も召喚できる。
よって千枚田を見ているときだけは、心が空っぽになっても不安につけ込まれず、つまり理想の祈りコンディションが実現されるのである。
千枚漬けを御歳暮として思いつくのも、孫と千代紙を数えるのも、十年前から寸分違わぬ暗誦のような調子の小言を家族の口から延々と聞かされるのも、無意味の繰り返し、つまりカジュアルな祈りである。
これらのリピートコピーで雑念はシャットアウトされ、悩みはいったん保留され、リフレッシュした気分で、再び事にあたれる。
つまり日常は続く。
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