警戒区域前夜
2011年3月の3〜4週目だったか、某友人が仕事柄の緊急通行車両をもっていて、通行止めだった常磐道四倉インターから、富岡インターまで乗ったことがあった。当然他の車は走ってない。途中「これ本当に行けるかぁ!?」というくらいの地割れや段差をそろりそろりと乗り越えて、無人の町へ。
この時はその友人の会社の印刷機だかなんだかの、幾つかのOA機器をレスキューするのが目的。当時は放射能の知識が全くなくて、必要以上に警戒してたので、というより知識がなくて怖かったのでカッパ、帽子、長靴を着て乗り込み、作業が終わって最後に車に乗り込む時に、全部その辺に脱ぎ捨ててから乗ってたりしてた。その後、ある会社のパソコンをごっそりレスキューしたり、知り合いのクルマや荷物を取りにいく度にそんなことをしてた。これがそうボラの前身でもあったか。
常磐道が完全にロックアウトされると、山麓線の四倉セブン前に30km圏の検問があって(そこを通ればどこまでもフリー)、自衛隊が立ち入りを規制していたのだが、20km圏と30km圏の間にいくなら(広野町とか)通してくれたりしたので、広野に行くとか言ってしれっと20km圏に入っては誰かの荷物やパソコンやクルマを取りに行くというのを何度か繰り返していた。その検問から先に行くには、自己責任云々という紙を渡されてたりして、今思えばあの紙もアーカイブしとけばよかったな。圏内はシーンと静まり返っていて、なんかの映画のシーンに紛れ込んだかのような感覚さえあった。検問の自衛隊の人とは、結構言い合いみたいなこともあって、立ち入りに関しては割と厳しかったのだが、2011年4月21日は、中に向かうクルマは皆フリーパスにしてたと後できいて、震えがきた。つまり、4月22日に警戒区域(20km圏)に制定される前、住民が自宅から何かを持って来れる最後のチャンスだと、当時は考えられていて、国も自衛隊も最後は大目にみたということだろうか。
21日から22日になった深夜0時、運転中にその時を迎え、20km圏が警戒区域になったことを伝えるラジオを聴いて、「あー!これでもうホントに終わりなのか!?ちくしょー!」と絶望的な気持ちとやるせなさ、無力感で涙が出てきたのを覚えている。その後「I love you & I need you ふくしま」なんかがかかるもんだからなおさら….。
しかしこの後、公益立入という制度で警戒区域が必ずしもオフリミッツなものではなくなり、後に住民の一時立入も始まったりして状況は進んでいく。