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1966年富岡町出身。富岡一小・中~磐城高校~武蔵野音楽学院卒。在京中にNomadic…

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1966年富岡町出身。富岡一小・中~磐城高校~武蔵野音楽学院卒。在京中にNomadicRecordsを立ち上げ。2009年に富岡町にUターン。震災以降「富岡インサイド」「相双ボランティア」「双葉郡未来会議」「ふたばいんふぉ」を立ち上げ。

最近の記事

新舞子/ドラゴーネ

2011年4月くらいは、友人に連れられていわきの津波被災地をたくさん見てきた。その中では、notice-itのダイキが住んでいて津波で流された(生き残った)薄磯や、豊間、そして久之浜あたりの甚大な被害がやはり一番印象に残ったが、個人的には高校の頃からよく遊びに行っていて、2009年に東京から帰ってきた後もちょくちょく行っていた新舞子が気になっていた。特に何度も通ったカフェドラゴーネは、窓から海が見えるのが売りだったから跡形もないかなとは思っていたが、海岸沿いの県道382号線が

    • 母親2

      両親は平成25年9月に、広野の中古物件を買い、好間のアパートから引っ越した。高齢で田舎町でゆったりと暮らしてきた両親には避難生活の中で狭いアパート暮らしはつらかっただろう。そして何よりいつでもすぐ行けるよう富岡に近いところがよかったのだった。でも、だからといって、広野に買った中古の一軒家はかなり大きな家だった!母親の認知症が原因で、親に会うのが苦痛になっていた自分は、それでも時々行っては一緒にご飯食べたり、たまに泊まったりはしていた。しかし!ある日父親から夜中に電話があってチ

      • 「警戒区域アニマルランド」

        2011年〜2012年中は、警戒区域内で牛が集団でウロウロしてるのをよく見かけ、大問題になっていた。住民の避難によって残された動物たちは、囲われたまま餓死したものが多かったが、人によっては世話ができないからなんとか生き延びてくれと放すこともあり、それらは「放れ牛」とよばれ町中を闊歩していた。出荷する事も、区域外に移動させることも禁止されていた彼らがウロウロすると、クルマと事故ったり、家屋に入ったり、一時帰宅の住民に不安を与えるなどの理由で、飼い主の同意を得たものは殺処分される

        • 2011年6月11日「レクイエム鎮魂の儀」@南相馬

          警戒区域制定以降、避難先だったいわき以外の地域にも頻繁にいくようになった。特に福島、郡山は毎週のように通っては無事を確認したり、情報交換したり、イベントにいったり。食事はほとんど移動中の車の中だった。しかし国道6号の20km圏の通行証を取るのがめんどくさくて、近いはずの南相馬へはなかなか足が向かなかった。 それが2011年6月11日、坂田明さんが「レクイエム鎮魂の儀」のために南相馬に演奏しに来るというので、これはいかねば!と意を決して出発。結局、通過交通申請せず、20km圏を

        新舞子/ドラゴーネ

          ビッグパレットふくしま

          震災以降、何が一番嫌だったかといえば、それは自由を奪われた事だった。好きな時に、好きな場所で、好きな事ができない。自由奔放に生きて来た自分には何よりそれだった。でもそれよりも自分が誰の何の役にも立てないもどかしさや無力感の方が、何よりも辛かったかもしれない。 2011年の3月のある日、当時の会社のスタッフが避難してるときいて、ビッグパレットふくしまに会いに行った。そこは最大で2500人をこえたという東北最大の避難所で、イベント会場は勿論、通路から踊り場まで、ダンボールと毛布

          ビッグパレットふくしま

          警戒区域前夜

          2011年3月の3〜4週目だったか、某友人が仕事柄の緊急通行車両をもっていて、通行止めだった常磐道四倉インターから、富岡インターまで乗ったことがあった。当然他の車は走ってない。途中「これ本当に行けるかぁ!?」というくらいの地割れや段差をそろりそろりと乗り越えて、無人の町へ。 この時はその友人の会社の印刷機だかなんだかの、幾つかのOA機器をレスキューするのが目的。当時は放射能の知識が全くなくて、必要以上に警戒してたので、というより知識がなくて怖かったのでカッパ、帽子、長靴を着て

          警戒区域前夜

          バローズは避難所だった

          いわきに避難してまもなく、旧バローズに知り合いのバンドマンが避難してることを知り、Wi-Fiがつかえたので現状を打破すべく自分も転がり込んだ。狭い親戚宅に多い時で10人が寝泊まりしてて居づらかったのもあったりして。後に犬と一緒に避難したソニックの楽屋を使わせてもらったり、関野君はじめソニックのスタッフには本当にお世話になった。そのバローズやソニックでは、支援物資を集めては運んでる地元ミュージシャン達を目の当たりにして刺激を受け、避難中の身ではあるものの自分にハッパをかけながら

          バローズは避難所だった

          父親の涙

          2011年3月13日にいわきの親戚宅に避難してから1週間くらい経った頃、両親が自分に言わずに富岡に戻り、置いてきたネコを連れてかえってきた。生きててよかった!しかし、同時に放射能の影響が定かでなく禁止されていた食糧を持ち出してきて、ただでさえガソリン不足というのもあって、こっぴどく父親を叱ってしまった事があった。すると父親の目から大粒の涙がポロポロと…。それは生まれて初めて見る父親の涙だった。物流が止まって物資不足だったいわきで、お世話になってる親戚への気持ちだったんだろうけ

          父親の涙

          母親の認知症その1

          2009年に東京から富岡に帰ってきた。その時すでに母親は物忘れがひどく、怒りっぽくなってきて認知症が始まってたのはみんなわかっていた。当時はまだそれなりに仕事をしていたのだが、2011年の震災後、やることがなくなると更に認知症は加速。最初に避難した親戚宅では、同じことを何度も何度も繰り返して口にするもんだから、その度に父親が怒るという場面には、正直げんなりしてした。なんとか好間にアパートを見つけ、親子3人で暮らすようになると、買い物に行く度に同じものを買ってきて腐らせたり、す

          母親の認知症その1

          いつか振り返る時が

          いつか振り返る時が