くだらない面子なんぞ捨ててしまえ

あきらかに“敗けた”という結果に、“敗けてない”などというのは、旧軍が敗走や撤退を転進、全滅や組織的戦闘の継続不能を玉砕と称した、現代では霞ヶ関文学に残るであろう“言い換え”や“読み替え”という伝統的な技法と類似していると思われる。

そこにあるのは、事態を客観視せず、精神論と非科学的な思考と判断であり、一時的に責任を回避し自分の面子は守りきろうとする欲である。
それは、残念なことに、敗戦後70年以上経た今でも残る悪しき慣習である。

1年半続くコロナ禍のなかで、日本政府のCOVID-19対策、ワクチンの接種と供給の問題、何が何でも東京五輪・パラリンピックの開催を強行する姿勢からは、80年前に始めたアノ戦争の頃から、“この国の本質は何も変わっていないのではないか?” という感覚が生まれる。

“歴史は繰り返す”というのであれば、歴史から学ぶこともできる。
また、体験から学ぶこともできる。

歴史からも体験からも学ばず、ヘタをすれば、面子のために歴史も体験も都合よく改竄ないし忘れようとするのは、愚かなことではないだろうか?

このままでは、過去と同じ過ちを犯しかねない。

いい加減、そのくだらない面子なんぞ捨ててしまえ。

追記(2021/08/04)
以下のツイートを編集したものです。https://twitter.com/two_sea/status/1412810322637852673?s=19

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